おはようございます。
今回のブログでは、調和という言葉を何回も用いていますが、調和とは何なのか?を少し考えてみたいと思います。
辞書には「物事の間につり合いがとれていること」とあるが、これだけだと何かあっさりしているというか、動いているものを止めて外側の状態だけを客観的に見ているだけといった印象を受けます。
辞書ですから、これはこれでいいと思いますが…。
しかし、調和というのは、エネルギーを秘めた動的な事柄だと思うのです。
もっと何かこう、感動と歓喜あり、美しいハーモニーの調べを奏でるような、そういったものを感じるのです。
調和が無ければ、この宇宙を含め現象界そのものが無いのですから。
物事の成り立ちには、異質なものどうしの調和がある。
例えば、中国の故事に「盾と矛」というのがある。
これは「どんな盾も突き通す矛」と「どんな矛も防ぐ盾」を売っていた男がいて、客から「その矛でその盾を突いたらどうなるのか」と問われ、返答できなかったという話。
これも相対して対立させる観点では、フィフティ・フィフティのまま物事は平行線となり、進まない。
しかし、正反対なモノの間を取り持つモノが現れ、お互いの個性、主張が引き立つように調整し、フィフティ・フィフティの関係から、どちらかが歩み寄り、比率を変えてつり合いがとれるよう一体化できれば、両方が活きてくるのではないだろうか。
この歩み寄って和親していくところに、何か凄い動きのエネルギーを感じる。
そして、そこには感動あり、歓喜ありなのだと思う。リズムも生じるだろうし、そういった和親、調和の現象があちこちで起これば、美しいハーモニーとなっていくのではないだろうか。
この宇宙が、時と共にひろがり、膨らみをみせているのも、こうした調和があるからこそと思う。