おはようございます。
昨日は、今回のテーマである「MA」のMの字を書いていて、感じた事を記事にしましたが、書いていて丸を一筆で描く書画の光景が浮かんできました。
禅で円相と言うそうですが、円相という言葉は知らなくても、あの丸を書いただけの書画は誰でも一度は目にしていると思います。
円相は、禅の悟りや真理、仏性、宇宙全体などを円形で象徴的に表現したものとされています。また、書いた人の心を表すとも言われています。
以前に白隠禅師の本を読んだ時に、円相を見た覚えがあったので再度見てみたくなりました。実物ではなく写真ですが、改めて見てみると、なにかドーンとくるものがあります。
これは凄い。なんという衝撃・・・。墨の滲み一つにもイノチが躍動しているようにも感じます。
丸のカタチの体裁だけなら、コンパスで書いた円のほうが、キレイという概念に当てはまるでしょう。しかし、そんな概念などぶっ飛んでしまいます。比べる事など馬鹿らしくさせてしまう超越感。
白隠禅師の書画に関しては、電子顕微鏡での解析も試みられた事があったようで、それによると墨の粒子の一粒一粒が整然と配列されていたとの事。そして、カタチばかり似せた偽物には、この粒子の列が存在しないとの事です。
なにか納得できるものがあります。美しく見えるものは、見えないところから違うんですね。その根底にあるのは調和和親。墨の粒子一粒一粒のまわりには当然隙間があり、その空間は調和和親に向いた空間でしょう。また、紙も墨の意志をしっかり受け止め、墨の描くビジョンを一緒に実現しようとする。ここにも間が生きていますね。 そういう間が美しい丸を生み出している。だから滲み一つにもイノチを感じるのだと思います。
そのように墨と紙を、間をつうじてムスビつけたのは、人間の創造力なのだと思います。もう完全にテクニック、技法の枠を超えています。これは白隠禅師の生きざま、息づかいそのものの現れなのだと感じます。
操体の創始者、橋本敬三先生は、人間には神性相続権が在るということを、書物に書いていますが、正にそうですね。神と同じムスビの力を、人間も元々は潜在的に有しているのでしょうね。そして、それをどう活かすかは、それぞれの生き方にかかっているのだと思います。