東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

権力か愛か。・・・3― 1

おはようございます。

操体の臨床には、他の治療法にはない独特の診断法がある。それは動診であり、動かして診るということだ。動かして診るといっても、施術者が一方的に局所関節を動かして、可動域その他をチェックしようというのではない。相手(被験者)に動いていただき、その感覚をききわけていただくというものだ。

ききわけた感覚が不快であれば、基本的にはすぐに中止する。ききわけた感覚が快であり、その快適感覚が味わってみたいという、からだの要求感覚を満たしていれば、操法としてとおす。

感覚をききわける(診断する)のも被験者本人であり、ききわけた快適感覚を十分に味わうことでバランス制御をはかり、自然良能作用高めていく(治療)のも被験者本人であり、被験者本人のからだである。

従って操体臨床の場では、診断するのも治療するのも被験者本人ということになってくる。だから一人で自力自動によって行う場合でも、操者の診たてにより、言葉による指示(お願い)誘導と介助補助を受けながら行う場合でも、自力自療となる。

つまり、操体法では自力自療が大前提としてあり、それに導くのが操体臨床家であり、操者だ。操者の診たてや介助補助も重要だが、言葉による指示(お願い)誘導も大変重要となってくる。

操者は診たてに基づき、最快適運動コースにのせ、最高の気持ちよさを味わえるよう、指示(お願い)誘導と介助補助を行うが、(お願い)といちいち書いているのには、それなりの意味がある。指示と命令を混同されては困るからなのだ。

指示というのは指し示すことだ。被験者本人に自分の動きで勝手に動かれても、からだは反応せず、感覚のききわけは困難なのだ。だから操者は、自然法則に則りからだを使い、そして動かした場合、全身形態はどの様に連動するかということを把握した上で、要所要所で、全身がスムーズに連動するよう指示(お願い)する。そして被験者本人が、からだの感覚を素直にききわけられるように配慮しながら誘導している。

指示の意味を辞書で調べると、指図(さしず)することという記載もあるが、指図といった意味合いで捉えてもらっては困る。指図というと命令のようなイメージとなってしまう。指示(お願い)としているのは、命令形として受けとめてほしくないという願いもあるのだ。

なぜ、命令形だといけないのか。それは命令形には、強制や服従という権力的なものや「縛り」といったものがつきまとうからだ。

例えば、リラックスするように頑張れと命令されても、リラックス出来るだろうか?出来ないと思う。命令には強制の他に縛るという性質がある。

この場合、「リラックスするように頑張れ」と言われた側は、表面的には従うことはできても、そこから先はどうにもならない。心とからだを縛ってしまうからだ。心とからだが窮屈な状態ではリラックスできないのだ。からだの感覚をききわけるという行為、意識関与にも当てはまることなのだ。

事を合理的に進めるのならば、命令形はスムーズだろう。しかし、本来の心と、からだは、人間の合理的考え方に向いているのではなく、自然の摂理に向いているのだ。

本来の心(天に通じる意識)は誰でももっている。だから、先程の例のような場合、人間は命令ではなく、本来の心、まごころというべきもので相手に接しようとするのではないだろうか。

命令形は捨て、まごころから自然に湧いてくる打算のない労わりの言葉をかけ、そっと肌にふれ、緊張をほぐしてやろうとするのではないだろうか。
社会的、人為的環境に適応しようとする表面の心の底には、自然環境に適応し、その大自然を愛と調和によって創造した天に向くまごころが、しっかりとあるのだと思う。

 「至誠、天に通ず」という言葉がある。これは、まごころは神をも動かし、良い結果に至るという意味だが、操体臨床の場にそっくり当てはまると思う。
 
 そういう姿勢で相手の心とからだに向き合い、そういう至誠で指示(お願い)誘導の言葉を発する。至誠の誠は言が成ると書く。