東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

権力か愛か・・・2.

おはようございます。
今日も昨日と同じ、権力化か、愛かといったテーマで考えていきたいと思います。


操体及び操体法と権力とは相いれないものだと感じる。特に操体法に関しては、からだにききわけるという事が重要な為、当然、権力にはつながってこない。

からだを服従させる、からだに強制をする、といった事とは対極にあるのが操体法だ。自力自動で自力自療に導くようからだを動かす場合でも、臨床の場で相手に操体法を受けていただく場合でも、服従とか強制といったものがあってはならない。

からだの不調を訴える人というのは、それまでからだに対して服従を強要し、無理を強制してきた経緯が必ずあると思われる。権力は長くは続かない。その対象となるからだが、いうことをきかない状態になってくれば、権力うんぬんの問題ではなくなってくる。

否が応でも、からだに合わせなくてはならなくなってくる。それならば、身心の不調和に陥る前に、自分の考え方や生き方を変えて、健康を増進させ、どの分野であれ自分を高めていくほうが良いのではないだろうか。

自分ひとりで生きているわけではないのだ。自分を生かしてくれているイノチがあり、生かされて生きているのだ。道元禅師の教えには「鳥の命は鳥にあらづ空にあり、魚の命は魚にあらづ水にある」とある。

生命現象はバランス現象であり、生かしてくれているものの存在がなければ、その存在はない。からだもその中の一つであり、からだが生かしてくれている多くの存在とバランスをとって、調和へと向いているから自分が存在していると言えるのではないかと思う。

からだとそれを生かしめる多くの存在には、無条件の愛と自然法則が自在する。無条件の愛と自然法則がムスビとして自在するからこそ、からだを含めた多くの存在は調和の元に成立しているのだと思う。

だから、自力自動で自力自療に導くよう、からだを動かすにしても、今明らかになっている自然法則を意識して、からだを使い、動かし、からだにその感覚をききわけるようにしなければ意味がないのだ。

からだは快、不快を元にした感覚で応えてくれる。快であれば、そのまま十分に味わい、不快であれば中止する事。実践して悪くなる危険はないし、やってみて快を味わう程、日々やり続け快の質が高まる程、良くなるのが操体法であり、そこに健康増進の秘訣がある。非常にシンプルだ。しかしシンプルゆえに奥は深い。


介助者なしで行う場合は、自然法則の理解とそれなりの精神性も求められると思う。自然法則の理解なしに、自分の勝手都合な動きをからだにとおしても、感覚のききわけは困難だと思う。

いつもの自分の勝手、自分の都合の動きというのは、からだがそれなりに折り合いをつけてくれており、それで気持いいかと問われても、からだからしてみればナンセンスだろう。

自分にとっての楽な動きというのは、権力的なものが見え隠れする。愛でもって自分に対応してくれているからだと向き合うには、自然法則を意識し、それに基づいた動きをとおしてあげる必要がある。

自然法則は愛と愛をむすぶ架け橋であり、実を結んだ証が快適感覚なのではないだろうか。そうやって調和は密になっていく。そして日々繰り返すことで、未病を実すことにつながっていくのだと思う。

また、権力的な強制や服従といったものが、からだに対してあれば、動きも早くなってしまい、感覚のききわけも困難なものとなってしまう。早く良くなりたいという気持ちは解るが、その気持ちが我となり、その欲望を満たそうとすると、どうしても動きが早くなってしまう。 そんなつもりはないと思っていても強制してしまっているのだ。

感覚のききわけを目的とせず、見よう見まねで早く動いているだけでは、単なる体操だ。快適感覚こそが、最小エネルギーで最大の効果をもたらすよう働きかけてくれるものであり、その質をききわけ、より質の高い快適感覚を味わうという目的意識がなければ本末転倒であり、操体法ではないのだ。

うまい具合にからだと向き合うのは、時間的にも精神的にも難しいかもしれない。しかし、生かされて生きているという事は紛れもない事実であり、素直にそこに気持ちを落ち着かせ、無条件の愛に想いを馳せながら、からだと向き合ってみるのも、良いと思う。
きっと何かが変わる筈だ。

臨床に於いて、相手に操体法を受けていただく場合についても、書こうと思っていましたが、長くなってきたので明日とさせていただきます。