こんばんは。
今週は友松が担当させていただきます。
よろしくお願いします。
今年最初のブログとなりますが、今年は何かいつもとは違う感じがします。
世界が変わってきているのか。自分が変わってきているから、感じる世界が変わってきているのか。
どちらも当てはまるのではないかと思います。
先日、テレビを見ていて、トヨタ自動車の新型クラウンのコマーシャルが、何か気にかかりました。気にかかるといっても、別にイチャモンつけようというのではないですが、何か、時代の移り変わりみたいなものを感じました。
確か、30年ぐらい前のコマーシャルは「いつかはクラウン」というキャッチフレーズだったと思います。当時、クラウンに乗る人というのは、ある程度大人で社会的地位もそれなりにある人というイメージがあり、ある種のステータスでした。いつかは、この最上級の車に乗りましょう。そんなメッセージが込められていたように思いました。
あれから30年の月日が経ち、先日見たコマーシャルは「いつかはクラウン」というようなステータス性よりも、もっと大切なものに気づいた、という内容に感じられました。
このコマーシャルは、北野武氏とジャンレノ氏が共演しているが、以下のような会話をしている。
北野・・・「愛は勝つって歌あったじゃん」
レノ・・・「あった」
北野・・・「あれ歌う奴、馬鹿にしてたんだけどさ」
レノ・・・「してた」
北野・・・「愛は勝つよな・・・って最近」
レノ・・・「前は権力大好きオジサンだったくせに」
北野・・・ニヤッと笑みを浮かべる。
権力とは他人を自分の意志に服従させる強制力を意味するが、その背景にはそれを裏付けるものが必要となってくる。政治権力でいえば、警察や軍隊の物理的強制力が背景にあるという具合だが、一般的には金銭的なものとか、肩書きとか、あってはならないことだが暴力による恐怖といったものが、権力を裏付けるものとなっている。
だから、権力はそれを裏付けするものがなくなれば、衰退し、消滅する以外にないのではないだろうか。また、権力には服従の対象になる存在が必要となるが、それが無いなら権力も無きものと同じだ。権力は条件付のものであり、永遠にはつづくものではない。それは歴史が証明している事でもある。
一方、愛はどうだろうか。愛は裏付けを必要とするのだろうか。愛の表現としては、裏付けがあったほうが解りやすいかも知れない。しかし、そこに意識が向きすぎると、打算や見返りといったものにもつうじてきてしまう。本質的な愛は裏付けを必要とはしていない。なぜなら、この生命をはじめ、この世のあらゆるものは無条件の愛から生じているからだ。
この世のあらゆるものは、愛と調和によって生じ、愛と調和によって成り立っている。この世のあらゆるものの根源を辿っていけば、太極の意志や陰・陽といったものにつながってくるが、陰・陽があるということはその性質上、親和だけではなく、互いに反発し合う部分も当然生じてくる。
この世に存在する為には、それらが調和しなければならないが、反発し合うエネルギーにも方向・角度を与え、調和和親に向かわせているのが、愛の力なのではないだろうか。愛はこの世が存在する限り、永遠と言えるのだと思う。
権力か愛、どちらが勝るのか。
「愛は勝つよな」というセリフはもっともだと思う。しかし、それよりも、愛は勝ち負けという相対的な事柄を、超越しているのだと思う。愛がなければ、この世が存在しなくなるのだから。この世という相対的世界にも、それを超越した絶対的な自在があるという事なのだ、と感じる。
「操体」の学びをつうじて、このような考えとなりましたが、明日は同じ事柄でも「操体法」の学びをつうじての考えを書かせていただきたいと思います。