東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

勝ち負けと正義と光と影(7日目)

最終日になりました。
 
「正義」というとどうしても「正義ではないこと」の存在が必要になってきます。
ちなみに「正義」の反対語は「不義」だそうです。
 
これは「勝ち負け」「光と影」などにも通じるものがあります。
 
個人的な話になりますが、私はスポーツにそれほど興味がありません。
興味がないというのは言い過ぎですが、勝ち負けがあるスポーツにそれほど興味がないのです。
 
 
格闘技とか相撲は好きな方ですが、勝負の結果よりも、プロセスに興味があります。
また、フィギュアスケートとか、体操も好きですが、これも勝負よりはプロセスに
興味があります。(極めて個人種目ばかりですね)
 
そして、昔からゲームとかは余りやりません。
「勝っても喜ばないし負けても悔しがらない」のでつまらないと言われます。
 
実際、勝ち負けで一喜一憂しません。
勝った方がいれば、負けたほうがいるからです。
 
光と影の話だと、中世のヨーロッパで魔女狩りが行われた時、積極的に魔女狩りと拷問を行ったのは、教会の神職者だったというのは有名な話です。
 
教会の厳しい規律戒律の下では、他者に対する歪んだ厳しさが、異様なまで残虐な魔女・魔法使いとされた人達への拷問となったというのです。
 
 
さて、ここまで書いて「自分が『許しがたい』」ということはあるだろうかと考えてみました。
 
大きく言えば「匿名で暴言を吐く輩」はイヤです。
 
また、例をあげると、師匠が破門したとか、裏切る形で去って行った人間とずるずる付き合っている輩。
 
上司にセクハラされたことを訴えたら「オマエが誘ったんじゃないか」と言ったオトコ(実話@笑)
 
これはイヤですね。勿論別れたけど(笑)。
 
また、師匠のご縁で知り合った著名人と、師匠に破門された後でもこそこそ付き合っているとか、(こういうことはバレる)というのは、もう情けない限りです。
 
まあ、世の中には「友達だもん」という人や「まあいいじゃん」という人もいますが、
それがその人の「正義」なんでしょう。それがその方のスケールなのです。
 
結局、正義というのは自分の中にあり、他者を正義不義で裁くのではなく、「自分の中の『正義』に反していないか?」を問いかけることであって、他者につきつけたり、裁いたりするものではないのです。
 
 
と、ついつい「鬼灯の冷徹」(日本の地獄の閻魔大王の第一補佐官、鬼神の鬼灯様が主人公)を思い出し「こういう不義理な奴らはどんな地獄に落ちるかね」とか妄想したりします(笑)。
 
一週間ありがとうございました。
 
明日からは世界一周経験者、松浦さんの登場です
 
畠山裕美

 

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2018年春季東京操体フォーラム

4月30日(月)昭和の日に開催致します。

テーマは「スポーツ障害と操体」です。