東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

いろ〜いろ気づくままにムニャムニャに・・

5月18日(日曜日)午前3時20分
日曜日に入り、3時間20分が経過しました。島根の福田さんの後は、三軒茶屋の仙人こと、三浦がブログを担当します。一週間どうぞよろしく。


今、三茶のモスバーガーでブログ用の書き込みをおこなっています。頭はスッキリしてるんですけど、おめめが眠っていて、パッチリしないんですよ。コーヒーを飲みながら一服して暗やみの空をポーッとながめています。5月も、中旬。寒さもやわらぎ、朝の外気もからだにやさしいですネ。
うんじゃあ、ブログ、書きはじめます。


「いろ〜いろ気づくままに、ムニャムニャに・・・・」


私は23歳の時に、5年間の修行をおえて大東京にでてきました。そて居場所を世田谷に定め、現在三軒茶屋に拠点をすえ、腰に深く深く根っ子をはやし、そして張りついて、日々操体に想いを寄せ、その渦の中心にいて、発信しつづけてきました。


私の治療室は、三軒茶屋の三叉路を150mほど玉川通り(246号線)に入り、一つ目の信号を左側に入ります。入るとすぐそこが栄通り商店街。商店街に入って二つ目の路地を右側に入った2つ目の建物の、一階の一番奥の部屋にあります。


看板はかかっていません。ただ名刺が一枚かろうじて玄関の戸の中央に貼られ、治療室の存在を示しているだけです。


三軒茶屋の地下鉄の駅、南口から徒歩3分ほどでしょうか。駅から近くてとても静かなんですよ。驚くほど静かな空間を保っている、私、お気に入りの治療室です。


さて、三軒茶屋の街をすこし紹介しましょうか。


三軒茶屋には大きな三叉路が走っています。その一つは若者が住んでみたい街ベスト1、下北沢に抜ける茶沢通りと、環状7号線から狛江に抜ける世田谷通り、東名インター(東京インター)に入り厚木に抜ける玉川通り(246号線)です。玉川通りにそってその上を首都高速が走り、その交通量たるやハンパじゃないし・・この三叉路の騒音のひどさは日本一なんですよ。島根の福田さんこと、坂本龍馬が住む島根の環境とくらべたら、想像を絶するような不健康きわまりない都心空間のなかで、排気ガスをたっぷり吸い込みながら、しぶとく生きつづけているんです。この、マァこんな三軒茶屋もなかなか愛着がある街なんです。気さくな街、気取りがなくて肩が張らない、イイ街なんです。このこよなく愛する私の街、三軒茶屋の由来を少しお話しておきましょう。


今も、玉川通りと世田谷通りの交差点の三角地に道標が立てられています。その道標を改めて、先程見てきました。




『大山道 寛延2年(1749年)文化9年(1812年)再建される。大山道は矢倉沢往還の俗称である。この道標(大山道)は、旧大山道(代官屋敷前経由)と、文化・文政期頃に開通したといわれる、新大山道との分かれ道にあった石橋楼(三軒茶屋地名のおこりの茶屋の一つ)の角に建てられた。大山は古い民俗信仰である石尊信仰と、山岳仏教の信仰とが結合し、相模の修験道場として、重きをなし、将軍をはじめ多くの人々に尊崇された。とくに文化文政期以降は、江戸町人の大山詣りが盛んとなり、その案内のため大山道沿道に多くの道標が建てられた。』


当時の三軒茶屋は中馬(ナカウマ)引沢村、太子堂村、上馬(カミウマ)引沢村と、野沢(ノザワ)村の四集落からなり、これが現在の下馬、上馬、三軒茶屋太子堂、野沢の町名なのです。



この三軒茶屋、今は地下鉄の開通によって渋谷まで5分、急行で3分、なんてったって交通の便はバツグンで、どこにでも抜けられるのです。東京駅に出るにも成田に出るにもとても便利です。この地下鉄が開通する十数年前は、陸の孤島といわれ、交通網はバスの路線だけでした。
私が最初世田谷で開業したのは、今の三軒茶屋から下北沢に抜ける茶沢通りを走り、その中間地点にある淡島(三茶から徒歩15分)でした。そこで開業したのです。
文化・文政の時代で言えば、太子堂村淡島と呼ばれていたのでしょうか。その治療所は太子堂中学のスグ裏手にあり、近所には聖徳太子をまつる神社があります。
太子堂とは、聖徳太子の太子をとったものと思われます。太子堂中学も、かなり昔からあったのでしょうね。この中学校で思い出しましたが、歌手のEPOさんをご存じでしょうか。
EPOさんは私の顧客でした。頻繁に通院していただいて、とても心のかよいあえる方でした。EPOさんの澄みわたる、きれいな歌声がとても印象的です。


ところで、私が淡島で治療所を構えたお屋敷は『窓際のトットちゃん』で有名な黒柳徹子さんが、あの当時住んでいたお屋敷だったのです。


この近所ではかなり目を引く屋敷で、ゆったりとした敷地の中に立てられた日本風家屋で、中庭は日本庭園風で、徹子さんのご両親が丹精をこめて育てた四季折々の草、木、花が植えられて、とてもきもちのいい空間でした。私はよくこの中庭で昼寝をしていました。


私に治療室として与えていただいた空間は、16畳ほどの洋間でした。その洋間の中央に大理石で造られた暖炉が埋めこまれ、天井はさくらの木をふんだんに使った二段づくりの天井、そして床はやはりさくらの木にモザイク模様が一面に埋め込まれた、すばらしい一室だったのです。私はこの太子堂村淡島で15年間患者さまを診させていただくことになったのです。


ところで、私自身とても居心地のよい環境だったのですが、患者さまがこの陸の孤島まで足を運んで下さるのか少し心配でした。それに『人体構造運動力学研究所』とうい看板でした。この看板をみて、いったいここは何をなさるところやら、まったく不親切・・。開業した立地条件といい、この看板といい、今にしてみると、「おまえさんは何も考えていなかった・・」ということになってしまうのですが、それは若さゆえのこわいもの知らずがなせること、何にもなくて、何も失うものがないところからのスタートだったのでした。


今日はこれでおしまいです。明日は
「温古堂を追い出される」
の巻です。

追伸 皆さん、私がブログをひとつ打てないことは了解ずみと理解していますが、この一週間書き込みを行ったものは、まづ、畠山さんに送られ、彼女が私の代わりにブログの打ち込みを手助けしてくれています。畠山さんからは、いくら長い文章になっても気にしないで発信して下さいとの励ましをいただき、気兼ねなく書かせてもらっています。本当にその心づかいに感謝し、三浦センセイはこの一週間トン走いたします。



三浦寛