東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

私にとって操体とは・・・〜意識の変化〜

 四日目の私にとって操体とは・・・のブログは、操体を学ぶことで、意識がかわったので紹介したいと思います。今日もよろしくお願いします。
 この世に生を受け今まで皆さんの生活にも、ラッキーと感じることや、最近はツキがないと感じることがありませんか。腰が痛いなどで来院される方の中には、「最近はツキがなくて、こんな腰の痛さを引き起こしてしまった」と言われる方がいます。腰が痛いのは、ツキや運といったものではないと思いますが、いかがでしょうか。からだの訴えを無視して、今まで自分自身の意識(自我)の通りにからだを操り、無理を与えてきた報いとして、からだの故障などが起こるのではないか思います。からだには使い方・動かし方があり、からだはサインを必ず送っているはずなのです。
 僕も操体を学ぶ前は、体調を崩したり、ケガをすると、運やツキがなかったなどとマイナスの運命が原因などというようなことをいい、自分のからだを無理させたのは自分の自我意識と自分自身を原因と考えることはありませんでした。治療も同じではないでしょうか。自分のからだを直してもらうのは、他人事のように自分ではなく第三者の人に全てをお任せで、自分自身が直す所はないというように少し傲慢だったような気がします。医療を含め治療者側は、自分にもっている自己治癒能力だけではどうしようもなくなったときの手助けであって、自分自身のからだが回復する方向を向くためには、からだの要求に適う自分のからだの声(感覚)をききわけるという本来動物であれば持っているべき基本感覚である原始感覚の覚醒が必要なのだと思います。
 原始感覚を磨いていくと不思議なのですが、自我意識とからだの訴えは必ずしも一致していないことがわかります。そして自我意識である欲が薄れるような気がします。きっと快適感覚を通して、生命の意志に適う喜びをからだが感じているからなのでしょうか。そしてこのからだは自然の救いの中に生かされていることに気付かされます。
 操体では、操体操体法を区別していて、橋本敬三医師の考え、哲学などを含めたものを「操体」と呼び、橋本敬三医師が行っていた、臨床の部分を操体法と呼んでいます。操体の哲学に触れ、からだ・イノチ・意識と向かい合うようになったような気がします。
 操体の哲学を学び、イノチに対しては誰もが平等であり、この世の生とその先に待っている死は誰にでも訪れます。しかし、一人一人の自我の思考観念は、なぜ欲への方向を向くのでしょうか。自我と葛藤し、迷いが生まれ、自我によって疲れを感じ、自分を見失うことが分かっていても欲を向いてしまうのです。欲に向かうということは、それが楽なのだと思います。自我を沈めるためには、快適感覚を通した生命現象により調和されると思います。快適感覚にはからだから求められてくる要求だからこそ、自我を抑え意識を変える効果があるのではないかと思います。
 今日はこのあたりで・・・。ありがとうございました。