(昨日の続き)
「からだ」という動態を、ある種の「楽器」に喩えてみるとき、
からだへの「触れ方」は、
楽器の「扱い方・弾き方」に通じるように思う。
一方、触れるというその前に常に問われていることもあり、
それはからだの「どこに触れるか」ということだろう。
これがまた自分の中でうやむやになりがちなことでもあり、
でもそういうことから逃げたくないが為に、今も学び続けている。
こういうことに正面から食いつくと面白いのです。
さて、このことを先の喩えに当てはめると何に該当するだろうか。
どの「楽譜」を選ぶか、というのとは少し違う。
色々な意見や捉え方ができるだろう。
最近感じているのは、
もしかしたら何も選ぶ必要はない、のではないか
といったことだ。
選ぶまでもなく、既に目の前に
今日この瞬間に演奏する為の楽譜のページが開かれている。
そういうイメージなのではないか・・・。
では、もしそうだとしたら、ここで問題になるのは、
残念なことに多くの場合、
目の前のそれが「楽譜」だと、ちっとも思えていないことだ。
もしくは「楽譜」だとなんとなくはわかっていても
読み解き方がしっかりとわかっていないという事実だ。
既に多くの情報を目の前にしているはずなのに、
その真価に気が付いていない。
少しは気が付いていても、十分に生かしきれていない。
からだの要求をキャッチして、
それを操法のなかで開花させている操者を目の当たりにすると
こういう実感から目をそらすことはできないと思う。