おはようございます。
サントリーの創業者である鳥井信治郎氏は、とても信心深い人だったようです。
例えば、伊集院静氏の小説「琥珀の夢」にも、その信心深さを物語るエピソードや、信心深さを育んだ幼少期の母親の教えが書かれています。
この本(琥珀の夢、上巻)の中には、鳥井信治郎氏の幼少期から丁稚奉公の少年時代のエピソードが書かれています。
その中に、奉公の年季が明け、自分の商売を始める前、実家から支度金を貰ったのはいいが、突発的に神戸港で見た大型客船に乗りたくなり、支度金をつぎ込み大型客船の、それも一等客室に乗り込んだ時の話があります。
当時の一等客室での船旅ですから、まわりは外国の富裕層ばかり。そんななかでイギリス公使や将官とも仲良くなり、晩さん会に呼ばれた時に、こんなやりとりがありました。
・・・・・・・・・・・引用・・・・・・・・・・・
公使が信治郎に言った。
「鳥井さん、ひとつ質問してよいですか」
「へぇ~、こないにご馳走になりましたんや、何でも聞いておくれやす」
「日本にはたくさんの神さまがいますね。”八百万の神さま”たちです。あなたも、その神さまを信じていらっしゃるのですか」
「へぇ~、そら神さんは信じてます」
「その大勢の神さまは役割があるのですか?」
・・・役割? 何のこっちゃ・・・。
御利益がちがうということではないでしょうか、と正吉(通訳)が言った。
「ふぅ~ん、御利益かいな。公使はん、わてはそないに思うたことはありまへん。神さんは神さんだす。一生懸命、手を合わせていれば商いのことも、病気や災いからも守ってくれはりますわ。それが神さんからの施しだすわ。けど施しは見えしまへんで」
信治郎の言葉に公使が怪訝そうな顔をした。
「鳥井さん、施しが見えないとはどういうことですか?」
公使はじっと信治郎の話に聞き入っていた。
「何百、何千と手を合わせたから、神さんがこれだけのことをしてくれるというのは間違うてま。神さんを大事にして、一生懸命働いとったら、それでええんだす。施しは目に見えんもんで、見えたら施しになりまへん」
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このやり取りだけでは、イギリス公使は理解できず、母親ゆずりの陰徳の思想についても説明していたところ、イギリス公使は突然、目をかがやかせて拍手し「素晴らしい。鳥井さん、あなたも日本人も素晴らしい」と言ったと書かれています。
ここに書かれているイギリス公使ばかりでなく、信仰心はあっても、その信仰の見返りに、目に見えるかたちで自分(自我)の思い描く幸福(御利益)を得たい、と思う人は多いと思います。
しかし、それは相対的な信仰心であり、絶対的なものではない。だから、いくら拝んでも思い描く幸せが実現しなければ、拝むのをやめてしまうだろうし、貢物を求める宗教だったら、貢物が足りないからだと思い込まされるかもしれない。
神仏は絶対と本当に思えるならば、自分にとって嫌な事があっても、それもきちんと受け止め信心する。弁償法の考え方からすれば、嫌な事があっても、それは今以上に良くなるための試練という捉え方も出来る。
鳥井信治郎の信心とは、そういう絶対的な信心であり、嫌な事、凹む事、難題が立ちふさがっても、自分は神仏の庇護のもとに在るという、そういう信念も持っていたのだと感じます。
そのような信念が持てるまで信心していれば、何が起きても現実を前向きに捉えることが出来るのだと思います。
そして、前向きに一生懸命働く、そのプロセスの中で、何かヒビキ(気づき)を得、それが事業成功への原動力にもなっていた。
これは理屈ではなく、誰にでもある事だと思いますが、自分中心の相対的価値観ばかりに囚われていると、ヒビイテきても、それをキャッチできずにスルーしてしまう。
なにか信心を持つこともヒビキを得るためには必要なのだと思います。これは特定の宗教でなければダメとか、そういうことではないのです。
自然界の全てのモノに神仏(太極)の意志は貫通しており、勿論ご自分のからだにも神仏(太極)の意志は貫通しています。
ですから、ご自分のからだに一日一回でも「いつもありがとう」という感謝の気持ちを伝えるだけでも立派な信心だと思います。
信心は、信じる心と書きますが、自分自身を信じる心を育むためにも、からだへの感謝の気持ちは持つべきだと思います。