今、学びの中で思うことは、当時の私は、次々に変化し生まれかわっていく操体法の連続史のど真ん中いたということである。
ハイ、わかりました。と言ったものの、雲をつかむようで、何のことかわかるはずがなかったのである。
そのヒビキのある先生の言葉が教訓として、今の自分を支える力となっている。
今もどういう意味なのかと、考えている。それは生涯通じ、考え、学んでいくことなのだと思う。
今まで知らなかった言語の歴史が、私の驚きの操体史でもあった。
そして今、私のところで学んでいる弟子達に、50数年前に受け取った、師の言葉を同じように伝えているのだ。これも、受け継がれていく伝承の文化である。
当時、師のそばにいた者しか、知り得ない言葉が今も生きている。
私がこの言語史を、かみくだきながら、観じたこと、学んだことを、これからの人たちに伝えているのだ。