今、そして、操体史が大きな変動期を迎えている。
それを仕掛けた張本人は、私である。
どんなにすばらしいことであっても、時代の流れとともに、弊害がうまれてくるもので、師の後につづいて学ぶものは、必ず「見直し」が必要である。
私は再度、弊害を取り除くように学んできた一人である。
埋めていかねばならぬところを埋め、足らぬところを新たに掘りおこす。変化、変化の連続史である。
そうしてまた新たな鉱脈を見つけ、それを原稿におとしつづけている。
操体の原石は、これだと確信し、磨きつづけている。手応えは十分にある。
新たな操体史が誕生する。それをずっとみつめてきた人の心のなかに、確かな真理がある。
真理とは、遠くかなたに存在しているものではない。