東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

「からだ」で植物を感じること⑥

人間として思考し、判断していくこともできる。

 

動物のように、好ましいものに近づいて嫌なものから逃げることもできる。

 

植物のように、動けなくても変化をありのままに受け入れることもできる。

 

「からだ」の中にあるものは、それぞれに機能していてどれも大切。

 

もっと大切なことは、変化に適応しながらそれらが最適なバランスになっていること。

 

そのバランスをどのようにとるか、ということを操体をとおして学んでいる最中です。

 

 

学問として進化し続けている操体は今、植物的な在り方を学習させてくれています。

 

それまで常識だったことが覆るということは、操体も例外ではありません。

 

継続した「からだの学習」の中で、変化に対応し続けるということ自体がすでに植物的なのです。

 

呼吸もうごきも意識も感覚も、「からだ」に委ねて植物的に表現されてきたとき、まったく新しいありのままの「今の自分」を感じられるようになる。

 

「あゝ何もかもみんな透明だ

雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに

風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され

じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で

それをわたくしが感ずることは

水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ」

(宮澤賢治)

 

 

植物的な「からだの学習」は、今まで感じられなかったことが感じられるようになってくる、今まで意識できなかったことが意識できるようになってくる、という変化もギブしてくれる。

 

原始感覚でギブをいただくと、真理があるところに「今の自分」は存在しているんだ、もう存在していたんだ、ということも「からだ」は気づかせてくれるのです。