人間として思考し、判断していくこともできる。
動物のように、好ましいものに近づいて嫌なものから逃げることもできる。
植物のように、動けなくても変化をありのままに受け入れることもできる。
「からだ」の中にあるものは、それぞれに機能していてどれも大切。
もっと大切なことは、変化に適応しながらそれらが最適なバランスになっていること。
そのバランスをどのようにとるか、ということを操体をとおして学んでいる最中です。
学問として進化し続けている操体は今、植物的な在り方を学習させてくれています。
それまで常識だったことが覆るということは、操体も例外ではありません。
継続した「からだの学習」の中で、変化に対応し続けるということ自体がすでに植物的なのです。
呼吸もうごきも意識も感覚も、「からだ」に委ねて植物的に表現されてきたとき、まったく新しいありのままの「今の自分」を感じられるようになる。
「あゝ何もかもみんな透明だ
雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに
風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され
じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で
それをわたくしが感ずることは
水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ」
(宮澤賢治)
植物的な「からだの学習」は、今まで感じられなかったことが感じられるようになってくる、今まで意識できなかったことが意識できるようになってくる、という変化もギブしてくれる。
原始感覚でギブをいただくと、真理があるところに「今の自分」は存在しているんだ、もう存在していたんだ、ということも「からだ」は気づかせてくれるのです。