(きのうのつづき)
誰かの言葉で理解することから離れて、自分のことばでからだがききわけている世界を表現してみたい。
操体を学ぶ師や同志の紡ぎだすことばを聞いていると、なんだか「詩」のようだ、と感じることが増えた。詩人が二人で物語を紡いでいるときは、即興演奏を味わっているようにも観えてくる。
こういう場面に遭遇すると、これでいい、というか、これがいい、と強く感じてしまう。
からだ、細胞、生命、宇宙、人間、日常、空間、呼吸・・・。
そういうものを学問するなかで、生まれることばの表現が、自然と花開いている様子にいたく感銘を受ける。
誰にでも分かりやすく伝えること、その努力はあきらめたくはない。
そしてその前段階には、まだ認識されていない世界、ことばになっていないことを言語化する流れが存在していることは無視できない。その充実のための時間をいま過ごしているように感じている。
そんなことを感じていると、もう10年以上も前の話になるけれど、わたしが通っていた某予備校でのエピソードを思い出す。人生で何度か人のことばに助けてもらった経験があるけれど、これもその一つ。
なんで勉強しなくてはいけないのか。そういうことに焦点も当たることもなく、誰からそういわれたわけでもないけれど、「やらされている」受験勉強のなかで、学習意欲を失いかけていた。そんなわたしを見かねてか、数学と物理学の質問に個別で応えてくれていたアシスタント講師の先生がこんな物語をしてくれたのだった。
(あしたへつづく)