日々の生活の中で実践できるということは、それを実践したときにどう感じられるかということだと思います。
毎朝起きたら立位の作法を行います。
その日のからだをとおして、からだを立たせてくれているもの、ことを感覚としてからだがききわけさせてくれるからです。
毎朝起きたら呼吸の作法を行います。
その日のからだをとおして、呼吸させてくれているもの、ことを感覚としてからだがききわけさせてくれるからです。
誰かにやらされているわけでもないし、これをやらなければ健康を維持できないというわけでもありません。
何かのためにやるだったら続かないかもしれませんし、やめたくなるかもしれません。
でも、そうならないのはからだとわたしはノンバーバルで語り合っている、感覚をとおして悦び合っているからです。
もともと操体には自力自療という捉え方があります。
本人にしか分からない感覚(快適感覚)をからだにききわけ、味わい、治癒力を高める。
操者がいてもいなくてもそれは可能です。
それを可能にするもの、ことを伝えていくのが操者の役目でもあるのですが、最近は操体法と操体法以外の操体の実践の垣根がどんどん薄れてきているように感じるのです。