操体を学んでいると新鮮な「からだ」の感覚に遭遇する。
最近では、自分が植物的な生き物になっていくような感覚を味わうこともある。
普段の人間ver.が「動物」であるならば、学んでいることをからだとともに学習するときは動物のからだから、植物のからだに変化しているような気持ちになる。
以前はこんなことを感じることはなかった。「皮膚」の面白さを学び始めて、「アメーバみたいなうごきだな」と思うことはあった。操体の学びは「動き」の学びでもある。
そういう想いで学んでいた頃の「からだ」は、今思えば動物のからだだったのではないかと思う。
最近の日課は、道端の樹木を前に、操体で学んでいることを実践すること。
何をいっているか分からないかもしれないけれど、いま学んでいることを実践しているときのからだは、日の光を浴びて天を仰いでいる樹木のそれと、なんだかとっても似ているなぁという気がしてくるのだ。
巨木とかそういうものが好物でもある私は、その樹皮に触れてみたり、目の前でぼーっとしてみたり、対話できたらいいのになぁ、なんて思い描いていたりしていた頃もあった。
気が付いてみたら、また違った方向から対話をたのしんでいるのかもしれない。
こういう関わりあいも、なかなかいいなぁと、動物のからだと植物のからだを行き来しながらあじわっている。