おはようございます。
見るという事も、目で見て感覚するというだけではなく、そこに触れていると意識すると何か感じ方が変わるような気がする。
何か、今現在の現象に参加して立ち会っているとか、居合わせているという感じがする。
そして、無意識のうちにも何か調和に導かれるような、そんな感じも受ける。
単に見るだけでは、見ていることは見ているのだが、何か頭の中の決めつけ、先入観といったもの主体で見ているような気がする。
そして、そこにはからだが無いような気がする。
今のせわしい社会で生きていれば、そうならざるを得ないような気もする。
しかし、何か大切なものを自ら切り離しているような気にもなる。
毎日見ている遠くの山でも、空気の中の微粒子と光の関係で、見え方は違う。
その距離感のなかの、空気の微粒子の振動が光を反射し、その光に自分が触れる事で、それが風景として表現されている。
光に触れる、ということがなければ見るという行為そのものが成り立たない。
触れるという事は、今現在の生の現象に立ち会っている事とも言えるのではないだろうか。
操体法には、この症状だからこうする、という決めつけの考え方はない。
また、前回こうしたら効果があったから、と同じやり方をしても同じように効果が上がるとは限らない。
現象は変化しており、バランス制御に向くからだの要求も変化している。
からだの要求に応え、臨床効果を上げる為にも、「触れる」という行為の持つ多くの意味合いやその影響を掘り下げてみるのも良いのではと思う。