おはようございます。
彫刻家の高村光太郎は「触覚はいちばん幼稚な感覚だと言われているが、しかも其れだからいちばん根源的なもの」という捉え方をしていた。
幼稚なのだが根源的な感覚。
この感覚は、今の人為的情報過多な社会を生き、ややもすると情報に振り回され、疲弊している人達に、必要なのではないかと思う。
しかし、当のその人達は、それに気づけていないであろうが・・・。
もう20年以上前になるが、操体での治療の後、飾ってある観葉植物を見て「緑って、緑なんですね」と、少女のようなキラキラした目で呟いていた中年の女性がいた。
これは、以前にブログか、以前は東京操体フォーラムの開催時に作成していたビジョンSという小冊子に書いたかもしれないが、今も折にふれて思い出す。
それだけ、症状疾患にとらわれない操体の治療ならではの出来事として、初学の頃の私には印象的だった。
この女性が言うには、それまで植物の緑も緑色のトタン屋根の緑も同じような感じだったという。
それだけ自分の頭の中だけで情報処理し、決めつけで見ていたという事なのだろうか。
しかし、今見ている植物の緑は、概念としての大雑把なものではなく、空間の光を浴びながら、葉っぱ一枚一枚、茎一本一本が違って見えるという。
そして、そこには生命としての躍動感みたいなものがあり、見ていると自分も瑞々しくなり、元気をもらえている感じだと言われていた。
頭の固定観念で見ているのか、そのものの生命感に触れて見ているのか。
頭の中の世界観ばかりを優先させていると、心とからだのバランスは崩れやすくなり、様々な不調を呼び込む事となってしまう。
自然環境は、様々な恩恵を生物に与えており、無意識のうちにも、からだはそれらをキャッチして、より良いバランス状態に向かおうとしている。
そこに触れて同調してみる。
精神的にも身体的にも大切な事だと思う。