からだには、まだ人間の方で理解できていないだけで、可能性が満ちている。
それは生命の可能性であり、人間の可能性につながる。
操体を通して学んでいる最中にそのような生命現象に遭遇し、
生命感覚に貫通している真理と呼べるようなものに触れているようなきもちになる。
改めて考えてみると、そういった微細な出来事に気付くきっかけとなっているのは、
普段意識することのなかったことに意識を向ける機会が増えること、そして感覚というものに対してあらゆる角度から向き合う機会が「からだ」からの学びのなかで必然的に増えたからではないかと思う。
この向き合い方、あるいは受け取り方というものにも恐らく作法があって、
生命感覚情報の大きなインプットのサイクルにスイッチが入るようなことを、特に最近の操体では学んでいるのではないだろうか、と感じる。
それが今までの「感覚」を重視する操体のスタンスとも、また一味違うのだ。
「アウトプット」はひとまず置いておくことにして、
「からだ」から、また環境から、いただいていることがある。
いただいているから自然と生まれている表現活動がある。
そのあたりのことを息(呼吸)を介して学んでいるように感じる。