東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

感境7

昨日の続き

 

人間の可能性について想う。

からだを経由して、いただいたことのなかから学ぶ操体という学問は、

ある意味で、この生命の本来持っている可能性に触れ、

人間の可能性を発掘しているようなものだと思う。

 

それは、人間にとって、より本来の人間らしく、また生命らしく生きることにつながるのではないだろうか。

 

そんななかで、「感じる」ということの大部分を、からだを経由せずに機械に委ねる生活に慣れてしまっているということを、ハッと気が付かせてくれる機会が先日あった。

 

師匠と兄弟子にご一緒して、当フォーラム相談役の川崎隆章氏のご紹介で、落語家の立川生志師匠と桃月庵白酒師匠の二人会(「生酒の会」)に伺った時の事だ。

 

前編、後編ともに、豊かな空間を味わう機会をいただいたが、特に最後の生志師匠の「百年目」が響いた。この落語は初めて聴かせていただいたが、六代目三遊亭圓生の「淀五郎」を一時ききまくっていた私にとっては、途端に大好きな演目におさまった。

帰り道に知ったことだが、この「百年目」が圓生の得意な演目であったことも嬉しかった。

 

噺の内容も、生志師匠の芸から伝わる空気感にも完全に引き込まれて、ジーンと響きをいただいていたが、味わっていて驚いたのは、この演目の中に登場する人々の感受性豊かな生活の姿だった。

携帯電話もない、インターネットもない、電気の通っているインフラも乏しい生活環境の中で、人間の有している感受性をフルに使って人間同士が情報コミュニケーション豊かな生活を送って生きていることが伝わってきた。

 

そんな姿を味わっていると、いまの便利な生活のなかで、大切な人間の可能性を機械の可能性に委ねきってしまっているような気持ちがしてきた。

SDGsもいいのだろうが、人間側の感受性に目を向けることなしに、自然とのいい関係を考えるのは少し遠いように思う。

 

日本の古典と呼ばれている世界には日本人が感受性をフル動員して生きていた姿が残っている。それを味わうには、舞台から生まれる空間の生の空気に触れ、皮膚感覚を介して言外の体験をするのが一番だ。

気持ちが動いたら、古典を味わいに足を運んでみることをおすすめする。

時空をこえた人間の姿に、きっと皮膚感覚も悦んで、何か遠い記憶に触れているような気持ちが味わえるはずだ。

わからなければ、ただただ味わうことから始めればいい。

それはすでにアウトプットの始まりなのだ。

 

一週間のお付き合いありがとうございました。

明日から友松実行委員の登場です。

どうぞ、おたのしみに。

 

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