東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

病気はありがたいサインだ?

自慢ではないが、もう少しで死にそうになったことがある。半日遅れたらICUで、一日遅れたらあの世行きだったというヤツである。

今から考えてみると、それまで怪我もせず、大きな病気もせずそれなりに間に合って生きてきた。骨折したこともないし、どこか切ったこともない。それが、ある日いきなり人生初体験の入院をしたわけだが、あれはおそらく『休め』という強制ストップみたいなものだったのではないかと思う。

というのは、死にかけた割には三週間入院しただけだったし、幸いにも最初にかかった医者(せんせい)が、入院した病院の外科部長と同級生だったお陰で、検査も入院も非常にスムースに進んだ。最新鋭の医療設備で全身チェックまでしてもらった。普通だったら鼻の穴からチューブを入れて胃液を排出するらしいのだが、これも免れた。トイレも自分で行っていいというお許しが出た。とにかくひたすら寝ていたような気がする。たっぷりの睡眠時間と人様が作ってくれる食事(笑)入浴が許可されれば、昼15時位からゆっくりバスタイムという優雅さ(笑)それまで夜型だったのを改め、朝型の生活に切りかえたが、それも収穫の一つである。

もしも、この時ゆっくり休んでいなかったら、その後もっと大きなツケが回ってきていたかもしれないと思う。例えば本当にイノチをリセットしなければならなかったとか。

ところで、こんな事を書いていいのかどうかなんだが(笑)

その少し前から体調が少し良くないとは思っていたのだが、何となくある日脳裏に『六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)』が浮かんだのである。

六条御息所:源光源氏の年上の愛人で、嫉妬から生霊となって源氏の愛人達に祟る。源氏の正室、葵の上をとり殺す場面は有名。なお、本人は自分が生霊となっていることを知らなかった。
http://www.tnm.go.jp/jp/servlet/Con?pageId=B07&processId=02&colid=A11098
(画は上村松園の「焔」)

そういう愛憎劇に巻き込まれるような覚えはないのだが(笑)誰かの激しい嫉妬というか意念のようなものを感じたりしていたのは事実と言えば事実である。
また、偶然にも入院する前『すうぱあなちゅらる』な力を持つF氏に、『最近、呪いでもかけられてません?気をつけて下さいよ』と言われたりしていたのだった。これはまたいつかお話したいと思う。

★まあ、人に呪いをかけると『人に呪わば穴二つ』と言う。これは陰陽師が呪詛を行う時、呪詛返しでかけた方も死ぬ可能性があるので、墓の穴を二つ用意したとか、有名な『丑の刻参り』も、自分の呪詛が成就しても、それが自分に返ってくるため、墓穴は二つ、つまり相手と自分の分を用意せよ、いう話から来ている。いずれにせよ、人を呪ったりするのはやめたほうがいいのである。


話を戻そう。

入院している間、幻覚と幻聴を経験した。後で看護師さんに聞いてみると、痛みを抑えるために強力な痛み止めを点滴しており、さらに両手両足に合計8本の点滴を打っていたので、そういうことも起こることがあるんですよ、と言うことだった。確かにあれだけ刺されていたらヘンになると思う。更に無意識のうちに点滴の針を抜きまくったらしく、後で看護師さんから聞くに、一晩で10回やらかしたそうだ。勿論そんなことは全然覚えていないのだが、この時見ていた夢(のようなもの)はクリアに覚えている。いや、幻覚や幻聴と書くので何やら物々しいが、ヴィジョンが見え、天の声が聞こえたと言えば聞こえはいいのだろうか(笑)

私の場合、何か聞こえるというのは、話し声などではなく歌声だった。それも多数の声のコーラスみたいなものだ。多かったのは男性合唱団のもので、何の曲か分からないが、非常に親しみがあるものばかりだった。まるでオラトリオのような教会音楽的なものだったと思う。
入院した次の日の早朝、、グリークラブ(平たく言えば男性合唱団)の練習をしているのかと思って目が覚めた。どこか遠くから聞こえる何とも心地良い歌声だったと記憶している。

病院の近くにはK大があった。K大グリークラブが早朝練習をしているのかなと、うとうとしていると、看護師さんが巡回に来た。『男性コーラスが聞こえるけど、朝から練習してるんですか』と言うと、看護師さんは『そう?コーラスが聞こえたの』と答えた。
その次の日からは聞こえなかったので、あれはやはり私にしか聞こえていなかったのだろう。看護師さんは患者のうわごとは多分聞き慣れているに違いなかった。

ベッドの脇を見ると、花瓶にチューリップが生けてあった。Duran Duranの"Careless Memories”に出てくるチューリップと同じだ。病院の白い壁、PV(プロモーション・ビデオ)の白い背景。そんなことを思った(動画参照。丁度白いチューリップと白い壁のイメージ)。

今になって思い起こすと、これは『内なる歌声にからだが癒された』と考えてもよいのではと想う。
操体臨床例の中には、快適感覚と共に、『色を見せられて』からだが癒しをつけているというケースもあるからだ。『歌声を聞かされて』からだが癒しをつけるというケースもあるかもしれない。『無意識の動き』も、内なる治療者がからだに動きをつけて治しに導くと考えればいいのだ。

ここまで書いて、先日平直行相談役から聞いた話を思い出した。平氏と先日対談した、ヨガのN先生によると、ネパールに行ってヨガをするのだそうだが、敢えて落ちたら死にそうなところとか、危険なところで行をするのだそうだ。これはどのような効果があるかと言えば、自分の身が危険にさらされると、反動で生命力のレベルが大きくアップするらしい。戦争体験者にタフで比較的ストレスに強い方々が多いのも同じなのだろうか。


思うに、自分の身に強制ストップがかかったのは、非常にラッキーなことだったのだ。
我慢できる位の痛みだったらそのままやり過ごし、手遅れでした、ということになっていたかもしれないが、『からだが強制ストップをかけた』お陰でしっかり休むことができ、丁度いいタイミングで生命力のレベルがアップしたのである。

これは何とも言えない巧みな生命現象のバランスだと思う。人体というのは基本的に「間に合ってればいい」のだが、ある程度の刺激を与えないとやはり活性化しないのか?

病気はありがたいサインだ、というのはこういう意味もあるのかもしれない。


畠山裕美