東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

凸凹、ざらざら→ツルツル→写った。

普段、生活していてアスファルトを見ない日はないですよね。

道路はほとんどこれで舗装されており、よく見る光景なのですが
写真の道路は色が違って見えます。
新しいアスファルトと古いアスファルトなのだから違って当然ですが。
新しいアスファルトの方は平坦性があり黒く見えますが、古いアスファルト
方は、表面が凸凹していたり、削られて砂利の部分が出てきていたりして
白っぽくなっています。
これは昼間なら良く解りますが、夜だと見た目にはわからなくなってしまう。
光があるから見た目の違いがすぐにわかります。
太陽の光が反射したものを見ているわけですが、古い方は反射要因がいろいろ
複雑になっているのかもしれない。
だから、凸凹、ザラザラが見ただけでわかる。


舗装用のアスファルトの様に、色々な成分が混じったものではなく
単一の成分から出来ている何色のガラスやプラスチックでも、表面をザラザラに
削ると白っぽくなります。
透明なガラスも固いもので引っ掻くと、引っ掻いたところが白く見えます。
光の反射で目に写るものが変わる。
反対にザラザラではなく、ツルツルに磨きこめば、透明なガラスのあちら側が見えて
いたものが、今度は鏡のように透明なガラスのこちら側が見えるようになります。
これも光の反射で目に映るものが変わる。
そして、こちら側の自分が映って見えます。
しかし、これは本当に自分なのでしょうか。
鏡は可視光線を反射させる物体であり、鏡像は前後(奥行き)が逆転しており
鏡の語源は影見であるといわれております。
ということは、鏡に映っている自分は自分の影でしかないのかもしれない。
現に暗闇で鏡に向かっても、目では見えなくなってしまう。
しかし、暗闇の中で存在している自分というのは感覚出来ている。
明るいところでも、自分の顔、背部以外の手、足などは目で見えるが、顔、背部を
目で見ようと思えば、鏡を使うことになる。
明るいところで目に見える手、足も光源が違えば、色が違ってくる。
そしてなにより、自分自身は常に一定ではなく常に流動的な存在だ。
そうなると、目を中心とする視覚では本来の自分はわからなくなってくるのでは
と思います。


「神は自分の像の如く人間を創造りたまえり」とあります。
神人合一の立場の人間である自分の像とはどんな像なのだろうか。
鏡は鑑とも書き、鑑と書いた場合は、人間としての模範、規範を意味し、手本と
じっくり照らし合わせることを鑑みるという。
人間としての規範、模範とは神の理念である自然法則の中にあると思います。
自分自身と自然法則をじっくり照らし合わせることで本来の自分がみえてくるのかもしれません。
その為には自然法則を学んでいかなければなりません。
その鑑は三軒茶屋におられます。
同じ時代に生かされていることに感謝です。



友松 誠。