東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

おさめはご褒美である

名著「快からのメッセージ 三浦寛著(たにぐち書店)」に

「帰一の法則」についての記述がある。

 

 

快からのメッセージ―哲学する操体

快からのメッセージ―哲学する操体

 

 

しかし、操体では肉体の死を死としてとらえていないのです。

帰一の法則としてとらえているのです。

帰一とは、命あるものは無条件の愛から生まれ、そして、その神性へ帰っていくことなのです。

ヒトは一番きもちがいいところから生まれ、そして、一番きもちがいいところに帰っていくのです。

これが帰一の法則です。

 

「快からのメッセージ あとがき」より引用

 

 

「帰一の法則」についてのこの文章は、何度触れても、いい。

『肉体の死は死ではなく、

ヒトは一番きもちがいいところから生まれ、

そして、一番きもちがいいところに帰っていく』

 

「快適感覚(きもちのよさ)」に基づいた操法を通すなかで

クライアントに、そしてクライアントの「からだ」に、問いかける言葉にも

「一番きもちがいいところまで、きもちのよさでからだのツクリを操って…」

という問いかけのプロセスがある。

 

操法」と「帰一」のプロセスが、重なってみえてくる。

操法には「おさめ」があり、眠りも「おさめ」であるように感じられ、

そして、「死」も

イノチあるものにとっての、ひとつの「おさめ」であるように感じられてくる。

生かされているイノチがおさまるところに、おさまっていく。

 

この「おさめ」の時空のなかで、快適感覚をききわけるということは、

ありのまんまの「イマ」に触れる、ということではないか。

 

人間の営みに目を向けると 

日々の生活に追われ、時間に追われてしまうことがどうしてもある。

「おさめ」の間を失ったまま、生きているということでもある。

だからこそ、人間には、生命には、「おさめ」が必要だと感じる。

 

「ゆっくり…、ゆっくり…。よく感覚をききわけて…」と、

ありのまんまのイマをききわける。

 

その「おさめ」の間(マ)は

イノチあるものにとっての極上のご褒美である。

 

1週間ありがとうございました。

明日からは東京操体フォーラムの巧者組、友松実行委員のブログが始まります。

おたのしみに。

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