師匠とその弟子 師の想いとは・・・。
そこから早く自分をつかめと、自覚せよと、そして自分の人生を越えて行くんだと談志は我が弟子に諭しているんだ。それ故談志師匠は一人の存在として、おまえさんの前で律して立ち続けているんだ。談志の存在は談志そのもの。何も談志になれと弟子に説いているんじゃネェ。せっかくのご縁だから、俺を通して早く自分自身になれと言っているんだね。僕は談志のきもちをそう理解するな。
私の師匠だってネ、自分のロボットを数多く世に残そうなんてそんなケチな想いで愛弟子を育ててきた訳じゃないんだ。
その証拠に、師匠の想いがたっぷりつまったエピソードがある。僕は、師匠を持たせていただくことができて、師匠のありがたさ、師がいることの誇りをも痛感したんだ。 あの時おれは一人号泣したね。うれしくってね。
僕が開業して四、五年経ってかな。
師匠から小包が送られてきたんだ。
その中にA3ほどの大きさで、それは師の顔写真だった。写真とともに一枚の便箋がそえてあって、
『愛弟子三浦君、何か思い余ることがあったらこの写真に語りかけてくれ、君の最高の幸せを願っている写真だと思ってな』
と。辻よ、福田よ、中谷よ、畠山よ、そして同志のみんな、師匠というのは弟子一人一人の最高の幸せを願っているものなんだ。それが本物の師匠だよ。
皆んな一緒じゃないんだ。一人一人の幸せを願っているんだ。一束まるめて皆んなの幸せじゃないってことだ。一人一人のだ。それは一人一人の弟子がいて、自分の人生を越えていく、そうしたなかで自分の価値観を磨いていく中での幸せを願うということなんだ。それがなくして皆んなの幸せには繋がってこないんだよ。それが一人一人のおつとめなんだ。
赤信号皆んなで渡ればこわくない、これはウソ。一人一人がこんな集団になっちゃ困るんだ。こんな価値観がまかり通って幸せになったって、いつかはねとばされちゃうよ。人生、目的がわかっているのと、わからづのまま人の流れに巻き込まれ、人がそうするから、たゝついていこうじゃ、まったく自己責任がない。自己責任のない生き方に目的があるのか、それがみえるのかそんな自分からそんな手を繋いでいる集団から、社会から、一日も早く「一抜けた」しなきゃネ。自分を越えるっていうのは自立するってこと。己れの世界観を養っていくこと。自立なくして一人一人が手を繋ぐことはできないんだよ。仲良しごっこはできてもね。自立していく物同士が手を繋ぐから、すごいパワー、底力になるんだ。自立した一人一人の底力が一人一人の優しさ、あったかさ、真心なんだ。乗り越えていくことが自立なんだ。ただ厳しい力強さだけではない。そこに優しさ、まごころ、あったかさがにじみ出てくる。自分を越えていくことは自分に対する思いやり、人に対する思いやり、配慮ってこと。配慮とは自分の生を慎んで生きるということだ。オレがオレがの人生じゃなくなってくる。それはイノチに対する慎みに変わってくるものだ。それが、思いやりの生き方だ。
師匠にも色々ピンからキリまで。弟子一人一人の最高の幸せを願っている存在が最高の師であると、僕は師匠からそう学んだ。だからこそ、師が成し、成さんとしてきた道をまっしぐらに歩むことができ、その意を継承し、掴み続けている。それも本望じゃないか。捨てたもんじゃないよ。おまえさん。だから学ぶことに貪欲で、サボることはしないな。学ぶことも、現役バリバリで自分に負けていないぞ、と胸を張れる。
いつかは弟子に追いこされる時が来る。それも本望、うれしいことだ。その時というのは、間違いなく、来る。 その時というのは、手も足も削がれてまった時だろう。そこで西田、ニンマリするな。
まだまだ当分先の事だから。それでもやれることがあったな。
八十、九十になって、手と足を削がれ、持って行かれても、六十年、七十年思考しつづけてきた脳ミソと言葉があるよ。脳ミソが現役バリバリでいてくれりゃ、口が出せるという奥の手があったか。
言葉で臨床を生かす快の本質を見極める生命観視ってこと。
じゃあ、足っていうのはまごころ、合掌じゃ。
手を削がれてしまって何が合掌だ。
あわてるな。両足の顔(足のうら)をあわせて足合掌じゃ。
足合掌はいいとして、それもアウトになったら師匠はどうする。
こころして祈るしかネェだろうな。それが底力。
それもありですか。
その答えは自分に問いかけてみよ、西田!!
注)出て来る固有名詞は東京操体フォーラム実行委員のモノです。
こちらをご覧下さい(畠山)。
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