東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

同士と同志

その昔、全国大会か何かの席で、見知らぬ人に「操体をやっている同士だからいいじゃないですか」というようなことを言われたことがある。
何か頼まれたのだろうが、その内容は殆ど覚えておらず、何やら不快感を感じたことのみ覚えている。また、江戸川区で一般向けのセミナーをやった時に参加していたある女性が、張り付いたような笑みを浮かべ「操体って、素晴らしいですね」と私に言った。
私は少しぞっとした。その女性とはその後買い物中にも会ったのだが、その時も「操体って素晴らしいですね」と言った。
何故ぞっとしたのかと言うと、何だか偽善くさかったからだと思う。偽善くささを私は敏感にキャッチしたのだろう。

私がこういうことに敏感なのは、中学高校大学時代と、森茉莉森鴎外の長女・小説家、エッセイスト)の本を愛読していたからかもしれない。
森茉莉の代表作、泉鏡花賞を取った「甘い蜜の部屋」は、私が年に一度は読み返す名著である。三島由紀夫が「あなたは、どうして男の性がわかるのですか」と言わしめた名作である。サディスティックな(少女をいたぶりたいという密かな願望を持つ)フランス人のピアノ教師や、禁欲を自ら強いている美貌のロシア青年が、モイラの身体の魅力に屈するところや、モイラに密通の相手がいることを知り、自殺する、いささか宗教的な(しかし、ベッドでは執拗)夫など、様々な登場人物が描かれている。
この中には、美貌の少女、モイラを囲む様々な「偽善っぽい人々」が登場する。それは、尼僧服の下のでっぷりと太った堕落したシスターだったり、女中頭だったりする。
この「森茉莉的偽善嫌い」という感覚は私を納得させるのである。

甘い蜜の部屋 (ちくま文庫)

甘い蜜の部屋 (ちくま文庫)

私達東京操体フォーラム実行委員は「同志」という言葉を使っている。「こころざしや主義・主張を同じくすること。また、その人」という意味を持つ。互いに三浦寛先生のもとで操体を学び深めるという志を持っている。
一方「同士」は「友達同士」の如く「なかま。つれ。友人。動作・性質・状態などにおいて互いに共通点をもっている人。同じ立場である者。」を指す。
この二つは似ているようで実は違う。

多分「講師と生徒」「師匠と弟子」くらい違うのではないだろうか。

そもそも私は[友達だからいいじゃない」という言葉には昔から疑問を感じていた。というのは、周囲にそういう言い方をする人達がいなかったせいもある。また、何をもって「友達」とするのだろうか。

これは私も経験したことだが、フォーラム実行委員の間でも「友達同士」の感覚でいるメンバーは「操体を師匠のもとで学ぶ同志」という意志を持って学んでいるメンバーにはついていけなくなる。そして結局は辞めていく。
中には「破門」を言い渡された者もいるが「友達同士感覚」でいると、師匠に「破門」されるという意味が分かっていないようで「破門」を受けても、師匠と今までと同じような関係を保てると思っているような節がある。弟子であれば、師匠が破門にした者と付き合いを絶つのは当然のことではないかと思う。それがわからないのが「友達同士感覚」でもある。
今思うと、彼らの口癖は「友達じゃない」なのだ。「操体ってみんなのものでしょ(だから勝手にやっていいんでしょ)」という言葉と、妙に似通った空気を感じる。

残念なことだが、ある操体の大会では、いつもこのような雰囲気を感じる。
操体ってみんなのものでしょ(だから好き勝手にやっていいんでしょ)」
操体やるには資格はいらないんでしょ」(健康体操を教えるのだったら、資格はいらないかもしれないが、患者あるいはクライアントを診るのだったらある程度は必要である。また、運動指導にも資格が必要な時代になってきている)

  • 操体は組織をつくっちゃいけないんでしょ」(橋本先生は、「組織の長にはならないよ」と言われたのだ)
  • 操体はお金もらっちゃいけないんでしょ」(橋本先生は臨床家として、治療費をいただいていた。健康体操を教えるのだったらお金を頂かないかもしれない。しかし保健師にしても地方自治体から給与はもらっているだろう。これは実際三浦先生と私が長野で聞いたある女性の話だ。これがどこから出て来たのかナゾだが、臨床家をバカにしているとしか言いようがない)。

これも、先に書いた「一般の人にあまねく広める未病医学としての健康体操」として操体を捉えているのか「医師が行っていた臨床」として捉えるのかで全く違ってくることがわかる。

今回、フォーラム開催にあたって、参加者にアンケートをとった。「医師が創案した治療法であり、自分でできる健康体操」と書いてある方が多かったが、

医師が創案した治療法≠自分でできる健康体操

なのである。「医師が創案した、自分でできる健康法」というように捉えられている方がおおいようだが、これは少し早とちりだ。橋本先生は、実際に操体で臨床をされていた。同時に「健康な人が病気にならないための未病医学」としても操体も残した。何度も言うが、「健康な人が病気にならないための未病医学」は顕教的に広まっているもので、「医師が創案した臨床」は、密教的に広まっている。操体を勉強する方は、この二つの区別をつけていただきたい。そうすれば、操体の「二重世界」が分かりやすいかもしれない。

我が師は言う。「操体はオレにとっての聖職だ。それを穢されるのは我慢ならん」。私も同感である。橋本敬三先生から、在り難くお借りしているのだから。

ただ、今は業界をじっと見ている。例えば海外にも、たった二週間操体を学んだだけで「自分は操体のヨーロッパで唯一操体を継承したものだ」と言っており、根本良一氏(根本氏は三浦先生の受講生である)が橋本敬三先生の直弟子で、自分は直系の弟子だ、と言っている輩もいる。ヨーロッパでは「操体ってオシッコ飲むヤツですか」と問われたこともある(某K療法の方々が、操体法と併用して温熱療法、飲尿を広めている)。これには驚いた。日本でもそう思っている方がいるという話を聞いたこともある。「飲む飲まないはテメエの勝手(橋本先生風)」なのだが、操体をやっている人間が「みんなそうだ」と思われるのも困りものだ。

それを「操体はみんなのものだから、色々なことをやる人がいてもいいんじゃないですか」という方々もいるのである。これでは、まともな論議もできないというのが現状だ。

以前「身体運動の法則」を誤って記載した本があった。それに対しても「いろいろなやり方がありますから、いいんじゃないですか」という意見があった。「橋本先生のおっしゃっている原理原則に反していてもいいのですか」と聞いたら「それはやはり困ります」とのことだった。
こういう「操体はみんなのものだから(勝手にやっていいんじゃないですか)」ということを、どのように捉えるのか。
勝手にやっていいのかと捉えるのか、未完成の体系を深化あるいは進化させると捉えるのか。
操体の未来のためにも、私は後者を選びたい。

一週間ありがとうございました。

さて、明日は東京操体フォーラム。楽しみです。

三浦寛 操体人生46年の集大成 "操体マンダラ Live ONLY-ONE 46th Anniversary"は2012年7月16日(海の日)に開催致します。