東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

主将の一言

今先生からバトンを受け、これから一週間
担当致します佐伯惟弘です。お付き合いの程、ヨロシクお願い致します。


         主将の一言 
                佐伯惟弘


ブログの世話人・辻実行委員から、「佐伯さんのブログは長い!」とよく突っこまれます。何も好きこのんで長く書いているつもりはないのですが、収集がつかなくなり、気が付いてみると、、、、長い!


これは、言葉の表現に対するコンプレックスからくるものだと思います。
私は、小学校の頃から、国語の成績が良くありませんでした。漢字を憶えることは、出来るのですが、読解力がないのです。


そんな私を心配して、父親が少年少女世界名作全集や、シートン動物記、ファーブル昆虫記などを買ってきて読むように勧めてくれました。


私は、さし絵の大きく美しいものから何とか読み始めます。
「日向が丘の少女」このさし絵は、抜群に美しい。
私は、麦わら帽子をかぶり、ドレスをきたアン・ルイスのような少女に一目惚れ。
時間をかけてゆっくりと読んだものです(というか、、、読解力の無い少年は、早く読むことが出来なかったのです!)。


どうやら、この時に嫁さんがアメリカ人となる(結婚生活は10年間でした)という布石を父親が作ってしまったようです。


シートン動物記では、「オオカミ王ロボ」「灰色グマの一生」等を感動の涙を流しながら読み切りました。しかし、これもさし絵がなんとか宿場町となって、読書という旅道中を支えてくれました。


ところが、ファーブル昆虫記となると、もう付いていけません。
まず文字が小さい。そしてさし絵が少ない。
この二つの条件が重なると、本という空間に私の心とからだがとけ込まなくなります。そして、本以外の空間からお誘いが次から次へと、やって来るのです。
もうこうなると、いけません。


笠も合羽(かっぱ)も草鞋(わらじ)も捨てて、神社の境内で遊び回っていました。


私の読書に対する興味のなさを、察知した父親が次にとった作戦は、「小さな目」。


これは、小学生が作った詩を大きな文字と元気のいいイラストで綴った詩集です。
教師をしている父親らしいアイデアに、まんまとはまりました。


「子供の視線って、すごく面白い!」とワクワク納得しながら読み耽っていました。


読書嫌いの子供がその面白さを体験することが出来た貴重な本です。
ところが、それ以降がいけません。


やはり、気が付いてみると境内で遊び回っていました。


こんな調子で大人になってしまった私は、文章を書くなどということは、全くの他人事。
根深いコンプレックスを持ったまま、現在に至っています。
そのため、未だにブログは、一ヶ月も前から書き始めて、準備しなければならないのです。


そんな私が、今以上に文章を書くことが出来なかった、というより、全く文章を書く習慣がなかった9年程前、大学の先輩から電話がありました。


「野球部創設25周年記念で、各学年から2〜3人、寄稿を募ってるんだが、、、、佐伯、頼む!」


1学年先輩で、当時主将をしていた小板橋さんから絞り出すような声。


三人の子供のため、遅くまで残業をし、早朝に出勤の生活をしていた私にとって、非常に重い課題でした。いつの間にか、忙しさのため、その課題の存在さえ忘れる始末です。


一ヶ月程して、再び小板橋さんから連絡がありました。私以外のOBから原稿が集まり、これから編集の作業に入るとのこと。


受話器の向こうから、僅かな希望をいだきつつも、私の原稿を諦めて沈んだ表情の小板橋さんが浮かび上がってきました。
野武士を彷彿とさせる小板橋主将の眼光が、やけに弱々しく放たれていました。


「無理なことを頼んで、申し訳なかったな、、、」


この一言で、やっとお尻に火がつきました。
「こりゃ〜大変なことをしてしまった。何とかせにゃいかん!!」と、火事場の馬鹿力。
その結果、何とか出来た「エッセイもどき」が下記の「神社の境内」というものでした。


           神社の境内


私の出身高校は愛媛県立松山東高等学校、旧制松山中学校。


松山中学校は、夏目漱石が英語教師として赴任し、小説「坊ちゃん」の舞台となったところである。


この漱石の教え子に、近代俳句の創始者正岡子規を始め、高浜虚子河東碧梧桐ら数多くの俳人がいた。
のちに子規は、アメリカから伝わったベースボールを松山に紹介し、近代俳句王国・野球王国愛媛の草分けと唱われるようになった。


その子規から俳句を教わった友人に、宇和島伊達藩家老の父(松根図書)を持つ松根東洋城という俳人がいた。


東洋城は夏目漱石を人生の師と仰ぎ、京都帝国大学を卒業。
その後、宮内庁の官僚を歴任。
第二の人生を俳句活動に捧げた人物である。
東洋城は一生涯を独身で通し、東京を生活の場としていた。


そして、松尾芭蕉の壮大な宇宙観こそ、俳句の王道と考え、“球心機動”という造語を直感的に生み出した。


これは、俳句を生み出す時の境地であり、「この状態でなければ、本質を捉えた俳句が生まれない」と東洋城は、言い切っている。
この王道を伝えるべく、東洋城は愛媛各地を行脚していった。



(東洋城が、百日桜と命名した桜と社務所)


そんな折り東洋城は、いたく居心地の良い茅葺き民家を見つけだす。
その民家は、樹齢千年近くのウラジロガシを御神木とする神社の社務所であり、宮司の生活の場でもあった。


火成岩でできた鳥居をくぐると小高い階段がある。
その階段を上ると、乾いた細かい土の境内。その後方には、左から徐々に右上がりになってゆく石垣。
それは中央から右にかけて7メートル程の高さを保ち、落ち着きをもった明るい境内を見守っている。


その石垣の上に茅葺きの社務所がある。
東洋城はこの社務所から見下ろす絵巻物のような風景に一目惚れをしたらしい。


川向こうの山屏風には、波打つような棚田。
点在する民家からは夕餉の煙が立ち上り、手前にある杉巨木の天辺では、カラスが鳴く。


そして、足元の境内では子供達の笑い声がこだまする。
一生を独身で過ごそうと決心した東洋城には、桃源郷と思えたに違いない。
言うまでもなく、東洋城はここで長居をすることになる。昭和25年の秋のことであった。


東洋城の世界とは全く関係なく、子供達は流行りの遊び・野球に夢中である。
境内が野球場、高い石垣はフェンス、社務所の茅葺き屋根はバックスクリーンである。社務所にいる“変なおっさん”の所まで誰がボールを打ち上げるかが一番の関心事である。


「ワシが打ちゃるけんの、見とれや。」
「なんしよんぞ、空振りぎりして、下手くそじゃのう。」
「じゃかましいわい、見とれよ。あのおっさんのなあ、メガネ割っちゃるけんの。」


こんな調子の元気なやりとりがあったに違いない。


正岡子規によって松山に紹介された野球が、瞬く間に子供たちの遊びとなり広がってゆき、また子規から俳句を学んだ東洋城が、俳句指導のため片田舎の社務所に逗留することになる。


明治の動乱期を突っ走った子規の情熱が、東温市(旧川内町)河之内にある惣河内神社(そうこうちじんじゃ)に息づき、新たな展開をしていったのである。


その中で最も感化を受けたのは、社務所の宮司佐伯惟揚(俳号・巨星塔)私の祖父であった。
東洋城の二度に渡る約一年半の滞在(東洋城は座敷横の一畳半間を“一畳庵”と称し生活の場とした)の後、祖父が東洋城に代わり俳句の普及に努めた。


社務所では月に何度も句会が設けられ、年に一度“ドジョウ汁句会”と呼ばれるドジョウ汁を食しながら俳句を詠む会が催された。
現在でも、この句会は場を川内中央公民館に移し、八月の第一日曜日に行われている。


社務所での事などつゆ知らず、境内はクモの巣をつついたように子供たちで溢れ、ボール遊びに興じている。
そして、細い丸太を削り込んだバットを振り回し、茅葺き屋根のバックスクリーン目がけてホームランをねらうのである。


たまたまボールが真芯に当たると、茅葺き屋根に吸い込まれる様にボールが小さくなってゆく。この瞬間、身体中がこみ上げる歓喜の渦に舞い上がる。


その後は、祖父の
「コラッ、誰ぞ。ここまでボールを飛ばしたんは。」


と、お褒めとも、お咎めとも取れない大きな声が待っていた。
「エヘヘ、、、ぼく。」


何とも言えない満足感にひたっているのである。
この様な原体験を持っている少年は、大学に入っても身体のどこかにその記憶がある。


生まれて初めてホームランを打ったのは、明治学院大学のグラウンドであった。




(おっと、、これは、ファールチップ。捕手の頭上に注目!)


その時に見た打球は、茅葺き屋根に吸い込まれるボールであり、小板橋主将の「でけえー。」という大声は、近所の子供達の歓声であった。
ベースを回っている時は、祖父の


「コラッ、誰ぞ。ここまでボールを飛ばしたんは。」
という声が聞こえていたのかもしれない。


私の野球の原点は、境内でのボール遊びであり、境内での様々な遊びが私の芸術活動の原点である。


輪切りにした木や、石ころ貝殻などで、立体作品や平面作品を子供達とともに作る“積み木” という活動を二十年間行った。


平成七年に、ニューヨークのバファロー市にあるアンダーソン・ギャラリーで行った個展では、原木輪切りを五十センチから三メートルまでの高さに積み上げ、鎮守の杜を作り、綺麗な落ち葉を敷き詰め、お供え物とした。



また、長い階段を作り、下った先には大きな砂場を境内として設置。そこでは子供達が自由に遊び回っていた。
これはまさしく少年期の境内での遊びそのものである。


私にとって、野球も芸術活動も少年期の境内での遊びを原点として、うず巻状に拡散してゆく流れに位置する。


その原点にボール遊びを持ち込んだ正岡子規のお陰で、今の私がある。私は祖父が俳句に打ち込んでいる姿を見て育ち、安心して思いっきり遊ぶことができたように思う。
そんな私を育んでくれた神社の境内にこころから感謝をするのである。


筑波大学硬式野球部二十五周年記念誌 -なせばなるー
寄稿文(一部修正)


火事場の馬鹿力で一気に書き上げたこの「エッセイもどき」、幼い頃のイメージと大学でのイメージを重ね合わせて、絵画技法・コラージュのように表現してみたのです。


「あれ?出来た!、、、結構おもしろい。」
この過程で感じた、快の予感と出来上がったときの気持ちよさ(快適感覚)が、長年私を縛り付けたコンプレックスというものを、多少は払いのけてくれました。


この「エッセイもどき」以来、言葉で表現することに快の予感を見いだし(依然として言葉へのコンプレックスは持ち続けているため、快の予感が無ければ、ただの苦痛です)、言葉を通して自分と向き合うことの大切さを学ぶことが出来ました。


あの時の小板橋主将からの一言のおかげで、遠い存在の俳人であった祖父の世界を、ほんの少し、垣間見ることが出来たように思います。


そして、言葉はどのような人にも時代を超えて分け隔てなく響きわたっていき、同時に「誰でも、言葉の鐘を自由にうち鳴らせる事が出来る!」と実感しました。


この気づきを与えて下さった小板橋主将に改めて感謝いたします。             

(完)

明日は、祖父佐伯巨星塔について話したいと思います。では また!
(辻さん!やっぱり長くなりました、、、)




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