みなさん、おはようございます!
今日はブログの4日目なかびで、12月最初の日、大安です。
なんとなく、いい感じ・・・それでは、始めましょう。
今年の8月、京都・大徳寺で東京操体フォーラムin京都が行われました。このご縁を作って下さったのが、京都・美山町在住の梅棹マヤオ・美衣ご夫妻。
25年ほど前からのお付き合いで、独り者になった私は、大晦日から正月は梅棹家で過ごすのが恒例になっています。
この梅棹マヤオさんのお父さんが文化人類学者・梅棹忠夫先生。梅棹先生は、京大今西錦司門下で日本における文化人類学のパイオニアです。
生態学を出発点とし、動物社会学を経て、民族学(文化人類学)、比較文明論に研究を展開。
90才を迎えられた今年の7月にご逝去されました。
心よりご冥福をお祈りいたします。
1才過ぎの我が娘が、眼をお悪くされた梅棹先生のお顔を、
「パンパン、パチパチ」と叩いて何とかコミュニケーションを取ろうとすると、それにニコニコと満面の笑顔でお返しして下さいました。
茅葺き民家の囲炉裏のある空間。
娘と先生のたった一度の出会いの場面が今も瞼に焼き付いています。
この梅棹先生の著明な書に「文明の生態史観」があります。この本を読んだ時の感動・・というか快感・・これはとんでもないものでした。
生まれて初めて、知的快感を得た書物と言ってよいでしょう。
そこで、今回は「文明の生態史観」を紹介するという身の程知らずの大胆な挑戦をしてみたいと思います。
まあ〜いつまでたっても、ノー天気のおバカさん。
さてこの「文明の生態史観」が生まれてくるきっかけとなったのが、1955年5月から11月までのカラコルム・ヒンズークシ学術探検隊。
これは、京都大学が組織した植物学、地質学、人類学、考古学、言語学、医学などの専門家がアフガニスタン・パキスタン・インドおよびイランの四カ国を戦後はじめて調査したものです。
自然科学・動物学を専門とされていた梅棹先生がこの半年の体験で比較文明という壮大な分野を創世されるにいたったのは、インドでの体験が大きいようです。
東洋の国・インドという言葉は、西洋人から見たイメージ。
実際には、コーカソイド系統のインド人は肌が黒いだけのヨーロッパ人。
もともと東洋という言葉も、ヨーロッパ以外の東の国という非常にアバウトな表現。
また、感性豊かな梅棹先生は、アフガニスタンからインドを旅する間に揺れ動く日本へのイメージを次のように述べられています。
「わたしは、アフガニスタンを旅行しながら、日本の、おそるべき人口密度のことをかんがえた。大阪や東京の街頭風景がおもいだされてくるのである。いつはてるともしれぬひとのながれが、ざわざわ、ざわざわと、わたしの頭のなかを、いったりきたりする。日本はこれから、どうなるのだろうか。日本の人口問題の深刻さをかんがえて、わたしは、くらい気持ちになる。そして、アフガニスタンにおける人口密度の希薄さをうらやましいとおもう。
ところが、わたしは、アフガニスタンからあと、パキスタン、インドをとおって日本にかえってきた。そして、そのうえで日本をみると、ひどく印象がちがうのである。東京の街頭にたって、あたりをながめまわす。アフガニスタンにいたときに、わたしの頭のなかをいったりきたりした、あのおびただしい群衆のすがたは、どこにもない。現実の東京の街頭には、人かげは、ほんのまばらに、みえるだけなのである。わたしはいつのまにか、日本の群集のイメージを、現実よりもうんとコンパクトなものに、頭のなかでかってにつくりかえていたのであろうか。
現実の東京が人口希薄にみえる最大の理由は、わたしがインドをとおってかえってきたからにちがいない。インドの街頭風景はみてきたばかりである。そのイメージは、まだ変形をうけていない。わたしは、あのカルカッタの下町にうごめく群集の姿を、一種のものすごさの感じとともにおもいおこす。」
梅棹先生の頭に去来するイメージのギャップ。
ものごとを何の偏見もなくみることの難しさ、そして大切さを痛感されたのだと思います。
(少し余談になりますが、梅棹先生の文章は、本当に読みやすいのです。なぜなら、ひらがなが多いからです。改めて、引用された文章をごらんになるとお分かりだと思います。
ご自身の資質にたいする誇りと、アカデミズムに対する強い反抗心、そして一般の人々に対する愛情を感じます。)
さて、この激しいイメージのギャップから、何が生まれてくるのでしょうか?
明日から、本題の「文明の生態史観」解説に入って行きたいと思います。おつきあいのほど宜しくお願いいたします。
ありがとうございました!
佐伯惟弘