東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

文明の生態史観 その4

みなさん、おはようございます。
今日は、ブログ最終日。
これで、やっと肩の荷が降ります・・・・なんて、終わったようなことをいってはいけません!
今日が一番大切な日。駅伝レースでいえば、タスキをエース・平直行選手にわたすラストスパートの時期なのです。
では、給水地点でお水を頭からぶっかけて、突っ走ることにいたしましょう!

昨日までに、梅棹忠夫先生の「文明の生態史観」のアウトラインを、説明いたしました。まだまだ説明しきれないところが多いのですが、このブログを通して「文明の生態史観」に興味をお持ちになった方は、中公文庫から、「文明の生態史観」が単行本(743円+税)で出版されています。
購入されても、よろしいかと・・・

この本の中では、日本とヨーロッパの歴史的推移が並行で、そのシステムもほぼ共通していることなどを、詳しく述べておられます。また、第二地域における、東ヨーロッパと東南アジアとの相関性
まさしく現在、この2つの地域で起こっていることを予言しているかのようです・・・・

おっと・・給水地点で水をかぶったまま、立ち話をしてしまいました・・じゃ、そろそろラストスパート。

第一、第二地域は、歴史、環境、文化は全くちがっていても、今、地球上にいるすべての人々の共通ののぞみは、何かというと・・・・梅棹先生は次のように、述べておられます。

「現代のすべての人間の共通ののぞみはなにかというと。もし、そういうものがあるとしたら、それは、“よりよいくらし”ということにちがいない。・・・中略・・・生活水準の上昇ということは、現に相対的にたかい水準にある第一地域の人間も、相対的にひくい第二地域の人間も、ともにふくめて、みんなの悲願である。」

この“よりよいくらし”これこそ、操体のもっとも大切にしている快適感覚だと思います。
梅棹先生は、生命の有り様に法則性を見いだす学問・生態学の立場から人類の歴史、文明を説き明かそうとしています。
そのなかで、梅棹先生がお分かりになっていたのは、生命活動は全て快の方向に向いているということだった・・・といえるのではないでしょうか。

過去の歴史学者でこのような生命の方向性を堂々と述べた人は、いないと思います。
人間が作り上げた文明も所詮、この地球上での生命活動にしかすぎず、なんらかの自然法則にしたがって生きているにすぎない。そして、その根底には、“よりよいくらし”を願うきもちがあると、梅棹先生は看破されていたのです。

ここまで述べてみると、操体の創始者である橋本敬三先生の生命観と共通したものを感じます。

そこで、改めて「文明の生態史観」を読み始めました。
この本は多岐にわたって述べておられるので、まだ全く読んでいないところもあったのです。最後の章に、「比較宗教論へのおぼえがき」がありました。
この章を読み、自然法則を熟視した上で誰もが考えなかった壮大な視点に、思わずめまいのようなふるえを感じました。
このように柔軟で壮大な発想ができる人が天才。

ここでは、宗教という現象を生態学的観点からどのように理解するか様々な考察がなされます。
そのなかで、宗教のアナロジカル(類推的)な現象として、伝染病があるとし、その類似点を列挙されています。

「第一は、病原体の存在である。バクテリアであれウイルスであれ、なんらかの病原体が存在しなければ伝染病は成立しない。おなじように、高級なものであれ低級なものであれ、なんらかの宗教的観念あるいは行為というものが伝達されなければ、宗教は成立しない。
第二に、流行病の場合には、病原体を広範囲にまきちらさなければ流行病は成立しない。宗教の場合も、特定の宗教的観念の伝播者の存在によってひろまる。それは、予言者や教祖のこともあるし、それにしたがうおおくの使徒たち、あるいは司祭者、僧職などの伝播の専門家であってもよいし、その宗教的観念の単なる保持者―いわば保菌者―であってもよい。
第三に、伝染病は、病気によるけれど、体内への病原体の侵入によってかならず発病するとはかぎらない。個人の健康条件によってかなりの差がある。宗教の場合も、特定の宗教的観念に感染しても、その個人がその宗教にそまるとはかぎらない。
第四に、伝染病の蔓延におけるおおきな要因は、社会である。社会構造、その居住様式、衛生状態、組織などが決定的な役割をもっている。宗教の場合も、まったくおなじである。
第五に、伝染病の場合は、社会的要因をもつつみこんで、そのいっそう基礎的な条件として、一般的な環境条件をかんがえなければならない。たとえば、気候とか、水利とかの問題である。宗教の場合もまた、おそらくはおなじような広汎な環境条件の役わりもかんがえなければならないだろう。」

また、病気というものを様々な要因の総合的観点からみる疫学を方法論として、宗教・精神を研究してみようともされています。

このように、生態学的な視点で、人間の作り上げたありとあらゆるものを一度、バラバラにして見直してみる、しかも何の偏見もなく・・・この姿勢を貫き通すことができるのが天才なのでしょう。

そこに橋本敬三先生の業績、生き方がオーバーラップします。
橋本哲学の中に、他人に代わってやってもらうことのできない自己責任の営みとして、「息・食・動・想」がありますが、これを、他の惑星に代わってやってもらうことのできない地球責任の営みとして、「大気の流れ・生態系全てを含めたエネルギーの交換・人の活動・宗教」と無理やりこじつけてみました。
そうすると、「息・食・動」の三つが、「大気の流れ・生態系全てを含めたエネルギーの交換・人の活動」となり、梅棹先生の展開された文明の生態史観の展開するところ、そして「想」が、「宗教」となり「比較宗教論へのおぼえがき」にあたるように思えるのです。

地球という生命体も、母親のおなかにいる胎児も、大海の大波も、露草のしずくも、全部で一つ、一つが全部の相似形。
そして、すべては快に向かっているのです。

というところで、足がよろけはじめました・・・もう、のどがかわいて・・・あたまはボーッ・・・あとは、平さんに・・・・・
みなさま、おつきあいほんとうにありがとうございました!


佐伯惟弘