東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

三つ子の魂百までも


こんにちは、ブログ3日目、お付き合いの程、宜しくお願致します。

「三つ子の魂百までも」といいますが、これは真実であろうと思います。
ただ、私の記憶を懸命に遡ってみても、3才以前の映像はなかなか浮かんできません。ということは、本人は魂の形成された時空を認識できないまま生きているわけですね。
実は、その空白部分を埋める為に人は生きている???
まあ〜まあ〜そんなことはないでしょう・・・と否定しつつも、今を作り上げている空白の時空に、私を知るカギがあると思っても決して不思議ではありません。

そこで、無念無想!
今一度、記憶を遡ることに挑戦してみました。
(自分探しは初日で終わったはずだったのですが・・・・・記憶を辿ることで、再び自分探しの旅に・・)

・・・・・はっきりと映像が出てくるのは、弟が生まれた日。
昭和34年9月12日、私が、4才10ヶ月の時。

築200年程の古い茅葺き民家のすすけた台所は、土間。奥には、釣瓶(つるべ)を吊した井戸があります。

谷川の水は、大きな鉢にこんこんと注ぎ込まれ、おくどさんには、お湯がたっぷり入ったお釜が2つ。
湯気がモウモウと立ち上がっています。

薪(たきぎ)は常に用意され、祖母さんは白い割烹着姿、忙しそうにシャクシで、お湯をタライに入れています。

産婆さんと、お医者さんが慌ててやって来てきました。そして、母親の寝ている部屋に。
私も部屋の中を覗いてみました。
すると、白い浴衣姿の母親が四つん這いになり、苦しそうな表情。
「ひろむ、そっちへ行くな。こっちへおいで!」
父親の大きな声が聞こえ、しぶしぶ父親の膝に座り込み、母親の姿を思い出していました。着物姿の父親は、私を柔らかく包みこみ・・・・

そこからの記憶が全くありません。
普通に考えると、弟の誕生をしっかり記憶しているはずなのですが・・・

その後の記憶は、台所と居間の断片的な映像が飛び交っています。もう弟の出産とは関係のない時空。
家族そろって(8人)の食事。マッチの軸のような針を動かして、チューニングする大きな箱形のラジオからは、
「これこれ〜いいしの、地蔵さん〜」
美空ひばりの歌。

祖父さんがつぶしたニワトリですき焼き。美味しそうな湯気が立ちこめていますが、会話は聞こえません。

続いての記憶。
目が覚めた後、タンスや天井の木目を、ただひたすら眺めています。すると、木目が人の顔になったり、竜に見えてきたり・・・それが楽しくて、楽しくて・・・時間が経つのも忘れています。

今度は、積み木遊び。
厚さ1センチで、4センチ平方の積み木には、ひらがな1字。裏には、絵が描かれています。
「ひ」の裏には「ひよこ」。
私の名前が「ひろむ」だから、最初に思い出したのでしょう。
あの時の肌触り、感触の良さを今でも指先が覚えています。
そして、積み上げては壊し、積み上げては壊し・・・
ドミノ倒しに、お城作り、延々と作り続けていました。

あれ、今、臍の緒がついたままの弟の映像が浮かんできました。ガーゼと紐のようなものが、弟の臍に絡みつき、タライの中に入っています。

しかし、お臍の緒がどのようにして切られたか分かりません。

もう映像が動かなくなりました。

霧が立ちこめるようで・・・弟の誕生以前の記憶は、やはり浮かんできません。浮かんでくるのは、庭先の風景。雨戸、土壁、石垣、筧の水・・・当時の映像は、子供目線。
落ち葉となった松葉のじゅうたん。2〜3輪となってしまった白いツツジの花。
カタツムリの家となったモミジの木の洞。

ここまでの記憶、多くが我が家の庭先のデイーテイル。
溢れるほど浮かび上がってきます。時には動画、時には静止画。
あまり人物は出てきません。
どうやら、一人遊びを楽しんでいたようです。

ここまで記憶を描いて来て、私の20年間の芸術活動が「積み木」であったということが、よくわかります。

また、「積み木」を作っているとき、幼いころの記憶が蘇っていた理由も分かります。

やっぱり、「三つ子の魂百までも」ですね。

1995年 ー積み木の杜ーニューヨーク・アンダーソンギャラリー

今日は、ここまで!お付き合いどうもありがとうございました。では また あした!


佐伯惟弘

8月28、29日は大徳寺玉林院にて「東京操体フォーラム in 京都」開催
9月18、19日スペイン、マドリードにて「操体フォーラム in マドリード」開催