突然ですが、プロフェッショナルとアマチュアって面白い垣根だと思いませんか?
だって、やってることは変わらないのに、天地の差が有るのですから、笑えます。ほんとは笑えないんですけどね・・・
何が違うんでしょうか?考えたこと有りますか、お金貰うから?仕事としてるから?考えれば考えるほど曖昧模糊と言いますか、個人の価値観によってもその基準は大きく変わってきます。
私は未だに過去の夢が捨てきれず、やっていることが幾つか有ります、一つが野球です。小学校から始まり高校まで、高校を卒業してからは軟式の連盟に席を置いて、現在も野球をやっています。
何でやってんの?ええ年してまで・・・などと外野からの声を聞きながらも、現在でも二月の末からキャンプイン?12月の初めまで試合と、それこそ試合数は違うもののプロ顔負けの“意気込み”で取り組んでいます。
そう!ここでのキーワードは“意気込み”です。
中には年間90試合前後もこなす猛者もいて、プロがざっと140試合前後ですから、プロ顔負けです・・・
気持ちだけならプロには負けてへんぞ!という気合いと言いますか気持ちの面では、プロと言う“自称プロ集団”が我々“軟式野球軍団”です。
ですから、私は職業を聞かれるとよく半分本気、半分冗談で『臨床家でプロのGrass Baseball Player(草野球選手)です!』と答えます。これも自分的には冗談ぽく言いつつも7割8分(7割8分って・・)は本気でプロだと思っています・・・
シーズン・オフには筋力トレーニング、ランニング等をして、次シーズンのために筋量を落とさない様にしてますし、それがそう!“プロ”としての私のプライドだったりします。
自分の子供と言っても可笑しくない位の年齢の若い連中と同じグランドでやっていますので、彼等にパフォーマンスとして同等のモノが出せなくなれば、潔く“引退”しようと思っています。
何故なら、“プロ”だからです。
野球(草野球も含む)に限らず、スポーツにおけるプロの定義とは一線で活躍(成績を残す)出来るかどうかというのが大きなファクターだと思います。
そしてこのプロの中にも“一流”と言われる方と、“二〜三流”と言われる方が存在します。この違いもかなり面白いです。
以前、同門の平さんと、とある格闘技の試合の結果の話をしていた時に、有る選手が試合そのものには勝利をしたのですが、勝ち方に問題が有ると平さんが言われていて、平さんがボソッと言われたのが、『あの勝ち方は無いよなぁ・・・余裕も何もない、ありゃぁ弱いよ・・もっとプロらしい戦い方しなきゃぁ、駄目だよぉ』と言われました。
プロらしい戦い方、観客有ってのプロで有り、勝利が大前提なのですが、お金を払って観に来てくれている観客にも喜んで貰い、自身の持っているパフォーマンスの最高な状態を出せるのが、プロで有り、余裕のない状態で、ただ闇雲にパンチを振り回し、ラッキー・パンチがあたって、はい!勝利みたいな、“子供の喧嘩”の延長戦の様な試合を格闘技のプロとして観客に見せるのはプロとしては恥ずべきことで有り、プロとして二流と言われても文句はつけられないと思います。
野球でも元巨人の長島茂雄氏や王貞治氏が一流と言われるのも、期待している場面で、期待通り若しくは期待以上の結果を出すからこそ、数有るプロ選手の中でも一流と言われているのであって、期待に応えて当たり前、期待以上を出してこその一流を超えた“超一流”なのだと思います。
操体の世界でも当然のことながら“プロ”と“アマ”が存在し、全国的に見れば残念ながら“アマチュア”が圧倒的に多く、どちらかと言うと“健康体操”的要素の多い、皆で楽しくやりましょう的な雰囲気が満載です。
これに関しては否定する訳ではなく、 “天然自然の法則”橋本敬三師のPhilosophy(哲学)に反してさえいなければ、ドンドン広げていけば良いのです。
ですが!ですが!哲学とは真理で有り原理なのですから、後生に託された人間が勝手に改竄(かいざん)したり、改訂してはいけないモノだと私は思います。それは“アマ”だろうが“プロ”であろうが同じで有り、アマだからこれ位は良いだろうとか、私達はこれで食べてないから関係ないとかで済まされる問題では無いのです。
少なからずとも橋本敬三という一人の人間が自身の一生涯を懸け、命を懸けて追求し、体系付けてきたものが “操体”で有り、一生、操体を知らずに過ごす人も居る中で、出会いがあったということは“縁(えにし)”で有り、人が人生と命を懸けて紡いだものに対して、いい加減な気持ちで取り組むのは橋本敬三師に対しての冒涜で有り、許されることではないのです。
アマチュアにはアマチュアなりの学びが有り、プロに負けないだけの“プライド”を持って追求するべきだと思うのです。
そしてもう一つ決定的に“アマ”と“プロ”とで大きく違う重要なポイントは“お金”です。
早い話がその仕事で食えるかどうかです。
よく操体の話をすると(特に全国大会などで・・・)、お金を取っちゃいけないんですよね?とか仕事としては出来ないですよね?とか聞かれることも有ります。
と・・!とんでもない話です!何処の世界に儲けない仕事、儲けてはいけない仕事が有るのでしょうか?仕事で行う、要はプロになるということはその仕事で儲けなきゃ存在意義がないのです。
特に我々臨床家が儲けるということは逆に言えば、それだけ痛み、或いは苦しみから救われた方がいるということの証でも有ります。
お金を頂くということは“責任”を頂くということでも有ります。
アマだからという甘えは一切なく、結果が全て、結果が悪ければ当然、売り上げが上がらず倒産するだけですし、結果を出すということは常に向上心を持って、クライアントの身体の声と向き合っていかなければならないという厳しさが背中合せだということです。
そして、これから操体の門を叩こうという若い人達が“仕事”として操体をとらえたときに、『いやぁ、操体は儲かりませんからぁ』などという声しか聞かなければ、操体を仕事としてとらえようとは思いません。
そうなるといくら操体が素晴らしい!と声高に叫んでも、独りよがりでしかなく、やがては廃れてしまうのだと思います。
仕事として人生を懸けるだけのものが有る!それだけの結果も帰ってくる!と解れば若い人達も操体を真剣に取り組んで行くのだと思います。
勘違いして頂きたくないのは、“アマ”が駄目で“プロ”が偉いと言っている訳では無いということです。
操体で言うところのプロが仮に臨床家だとすれば、この臨床家の中にも“超一流”も居れば“二〜三流”も居るということです。
橋本敬三師の意志(哲学)を忘れ、自論に自己満足を見い出し、いつの間にか操体とは看板ばかりの、操体とは似ても似つかない施術を行ってしまえば、これはもはやプロの臨床家とは言えず、ただの自己表現で有り、パフォーマーでしかないと思います。
有る方が、一流と二流の違いをこんな風におっしゃっていました。一流とは“貪欲(向上心)”で有り、二流とは“自己満足”で有ると。
ここまでで、良いと思えばその人はそれ以上の成長はなく、挙句の果てには、このやり方では上手くいかないからこれをプラスしてやってみました。
など、本末転倒、上手くいかないのは誰の責でもなく自身の“創造力の欠如”で有り、違うやり方や、違うモノをプラスする前に、橋本敬三師の書籍を穴が開くほど何度も、熟読し、その上で自身の身体を通して実践することで、“気付き”を得ることが必要だと思います。
何度も読んだ筈なのに読む度に、違う場所での新たな気付きが有る。それこそが創始者の意志で有り、行間に溢れる橋本敬三師の臨床ヒントこそが、臨床家としてのステップ・アップへの意志ではなかろうかと・・・
プロの中のプロ、“超一流”の道は険しく、安易に行けないからこそ、目指すべき価値も有ると、富士山を・・・否、エベレストを目指す気分では有りますが、登って行きたいと思います。
又、そんな集団が“東京操体フォーラム”で有ると信じています。
福田勇治
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