東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

さしだす

この前TVを見ていたら、こんな事を言っている人がいました。
「知恵を出す人、知恵を出せ。金を出す人、金を出せ。物を出す人、物を出せ。命出す人、命出せ。」
とても印象に残っていて後で調べたら、鳥取大学名誉教授で農学博士の遠山正瑛さんの言葉でした。
遠山さんは中国内モンゴル自治区の砂漠の緑化に力を尽くされた方だそうです。65歳の時にモンゴルの砂漠に植樹する事を思い立ち、30年以上かけて300万本以上の植樹をやり続けた人だそうです。
「やればできる、やらなければできない、続ければ成功、やめれば失敗。」と言われていたそうですが、そう考えられる人でなければ、とても出来ない事だなと思いました。

その番組は、いろんなところで人の役に立つ仕事をしている日本人を取り上げているのですが、よく目に留まってつい夢中になってしまいます。困難なことを実現しようとする志や、次々に立ちはだかる障害を越え続けていく姿に感動して、偉い人ってたくさんいるんだなぁと感心してしまいます。ぼくのような凡人にとっては、それだけの意志を支え続けるものってなんだろうという興味があります。



遠山さんの言葉を聞いて、なるほどそれでいいんだな、何も無いからどうしたらいいんだろうと思ってたけど、いのちを出せばいいんだな、それなら俺にもあるもんな、と思いました。と言っても、もともと僕のものじゃないんですが(笑)。
『この私のイノチを「生かされているイノチ」としてとらえてみる、生かされているイノチとは「授かりしイノチ」のことで、自分のイノチであって自分のイノチではない存在。つまり、このイノチを生かしてくれているものの存在に、私のイノチそのものがあるという考えです。そう理解すると、「自分勝手にできないイノチ」であって「いつかお返しするイノチ」なのではないか。「授かって、お返しするイノチ」とは、このイノチを生みだしている元(起源)に肉体を脱ぎ去って帰れるイノチであり、元におさめる、おさめさせていただけるイノチではないのか。』
三浦寛著「快からのメッセージ」より
しかし、いのちを差し出すとは言いながら、そこは凡人の浅はかさでありまして、はいどうぞ、このいのち好きなように使ってやって下さいと、無条件に両の掌を拡げることはなかなか出来ずにいます。おそるおそる一寸だけ拡げてみたり、あわてて引っ込めてみたり。これじゃぁなかなか神サマも使いづらいだろうな、と思います。
そもそもいのちを差し出すってどういうことだろう、と考えると、この人生を「自分」の好きなように使うのではなく、「自分勝手にできないイノチ」として「イノチを生みだしている元」に「どう使ったらいいですか」って尋ねながら生きていくことなのかもしれません。その鍵は「授かりしイノチ」にもともと備えられている「感覚」にあるのではないでしょうか。
『存在するそれぞれのものは天然のそれぞれの振動に共鳴した時調和する。生物はこれを快適と感覚する。人類はこの原始感覚を出来るだけ純粋につかもうと、それに指向すればよいのだ。生命は快適な調和なのだ。天然の設計にミスはない。』
橋本敬三著「からだの設計にミスはない」より



最近神サマに「どうする気なんだ」とか「早く決めなさい」とか、よく訊かれているように思うのです。人間の親に言われているのと同じで、凡人としては多少鬱陶しく思っていましたが、師匠にお話しすると「向こうにも大事なことだから訊いてくるんだゾ」と言われて、なるほどと思いました。昨日の話じゃないですが、せっかく扉を開いているのにそいつが入ってこないんじゃぁ、どうしようもないですよね。ならばなるべくその心に沿って生きたいなと思います。
そう考えると、自分の人生は、ハイ!と無条件に言えるようになる為の人生なのかな、お返しするまでその事を学んでいくのかな、と思っています。それも一回出来たらもう終わりっていうものじゃなくて、お返しする最後の瞬間まで、ずっと続いていくものなのかもしれません。

いのちを差し出すことでしか見られない風景がきっとあると思うんです。
それが見られたら素敵だなと思います。

からだの設計にミスはない―操体の原理

からだの設計にミスはない―操体の原理

快からのメッセージ―哲学する操体

快からのメッセージ―哲学する操体

一週間お付き合いくださいまして、ありがとうございました。
京都でお会いできるのを楽しみにしています。東京操体フォーラムin京都は8月28日(土)、29日(日)に開催です。


山本明