「すけべ」と言う言葉があります。
これは異性に対して異常な好奇心を示す人のことをいうそうですが、「すけべ」も浅い処ばかりで好奇心を働かせていると、「のぞき」とか「痴漢」といった人に迷惑をかけるような行動となりかねませんが、「性」のもっと深い根源的な成り立ちを追求しようとする好奇心は、昨日書いたように、どのようにして人間が創造され、生かされて生きている中で、どう生きなければならないのか、という悟りに通じてくると思います。
昨日書いたことの中で「気持ちいいか悪いかがわかるから有り難い」「イノチある存在は、快を求め、快に従い、快の方向をむく」と書いていますが、誤解してほしくないのは、「気持ちよければなにをやっても良い」というようなこととはちょっと違うのです。人間には欲があります。その欲求には食欲や性欲、睡眠欲、排泄欲などの生理的はもの以外にも、好奇欲求、達成欲求、金銭欲、支配欲その他諸々の欲求を、様々な環境と係わる中で生じさせます。欲求が行動力を生み、その欲求が満たされれば快感が生じることも確かです。しかし、快感には質があり、その時は快と感じてもすぐに飽きてしまう快や後味の悪さから二度と味わいたくない快もあるし、味わうたびに質の高まる快もあります。ですから快の質をどう判断するか、どこがどういう基準のもとに快、不快を判断するかということが問題になってきます。もし欲望が自分の損得を基準に快、不快を判断しているとしたらどうでしょうか。これはゆくゆくは自分やまわりの環境(人為的、社会的、自然)を破滅に向かわせかねません。性欲であれば相手にも、支配欲の類であればイノチの母体である地球さえも破壊しかねないと思います。ではどこがどのような基準の基に判断した快に、従うのが人間やその母体である地球にも良いのかといったら、欲の生じる前から自分の内に自在してある「救い」の貫かれたイノチの要求感覚(原始感覚)の快に従うことです。このイノチの要求感覚には、自然法則(太極の意志)が貫通しており、ここを基準に快を求め、快に従い、快の方向を向くようにすれば、神仏(太極)と共に悦びを称え合うということにつながってくると思います。
人間の「理性」や「品性」といったものは成長に伴い高めていくものですから、生きる時代やその環境によって歪められてしまう面もあると思います。ですがこの自然法則(太極の意志)というのは永久不滅ですから、迷いが生じたならばこの実相と向き合いその快の方向へ進んでいくようにすれば良いのではないでしょうか。
「すけべ」も人間の本能あっての欲求ですから、生長に伴い「理性」や「品性」と供にその質を高めていかなくてはならないと思います。幼児期、少年期、青年期、中年期、高年期と肉体の状態に伴いそれぞれ違うと思いますが、欲の基準の枠の中に安住し、もっともっとと刺激の閾値を高めなければ興奮せず、快感も得られなくなり、人がどうだろうとその欲望を満たそうというのであれば、それは「すけべ」ではなくエッチ(H=Hentai )になってしまうのではと思います。ほとんどの人が「エッチ」の方が小さい時からよく使っている言葉な為か、言うのも聞くのもそれほど抵抗はなくとも、「変態」と言われれば、人間性を否定されたような気分になると思います。ですから「すけべ」というのは、小さい時は「あのコのパンツは何色なのだろうか」といったレベルで良いでしょうが、生長するにしたがい、お互いのからだの仕組みや機能、それに伴う感情の違いを理解し、供にいたわり、思いやる為にそれらを学ぶというもとに好奇心を働かせる。それが人間のからだの神秘さと、すべてのものに生かされて生きているという現実の最認知につながり、大いなる存在は「すべてのものが気持ちよく天寿を全うできるように」と愛とその法則により、その元々を創り、その意志は悠久の時間を経ても朽ちることなく、受け継がれるようにして今生きる自分たちにも貫通していることを自覚する。そして、その意志を少しでも理解し、すべてのイノチに貢献できるよう学ぶという念頭のもとに、好奇心を働かせるようになってくる。そしてそれが生きがいであり悦びとなってくる。それが本物の「すけべ」なのではないでしょうか。
つづく。
友松 誠。