東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

知識と知識・・・「理屈をこねる」より

おはようございます。
今日も朝から蒸し暑いですね。湿気がまとわりつくようです。日中は気温も上がり、過酷な環境となりそうです。自分が過酷と思える環境の時ほど、立場の弱い人のことを考えなくてはなりませんよね。駐車場に停めた車の中、アスファルトの照り返すベビーカーの中、想像以上に過酷な筈です。



自分自身が感覚するから世界がある。自分自身が感覚しなければ世界はない。自然が流動的であり、自分自身が感覚し、動く(広義な意味で)から時がある。と思う。
自然を自分が止めることは出来ない。自然の流動性に合わせるしかない。しかし、脳に入ってくる情報は脳で止められるのだ。この情報には、原始感覚で快、不快を判断して、その感じ方も含めてインプットされて、記憶としてとどまり、行動の指標になっているものもある。逆に原始感覚の快、不快を感覚しないまま、詰め込み教育みたいなかたちでインプットされ、記憶にとどまっているものもある(今の人間はこちらの方が圧倒的に多い)。前者は原始感覚で快、不快を感覚した「知識」である為、自分の心が快の方向性をもっていれば、感恩報謝の行動、言動に結びつき、「理屈をこねる」にはつながらないと思う。片や、後者は原始感覚での快、不快の感覚をすっ飛ばしての「知識」である為、自分のエゴと結びつきやすい。それをエゴに合わせて、都合よく引っ張り出して論理立てするから「理屈をこねる」となってしまうのではないだろうか。
ここで問題なのが、前者は自分の心が快の方向性をもっていれば、という限定がかかることだ。原始感覚で快と判断し感覚した「知識」も、「今ここ」の時空での心が不快の方向性にあれば、快の「知識」も隅に追いやられ、快の方向性の行動には結びつかないと思う。心の持ち方によって意志がおれてしまえば、その時の自然の流動性に合わせた原始感覚も衰退するしかない。次第に原始感覚で快と判断し感覚した「知識」も、エゴに結びつきやすくなってくると思える。逆に原始感覚で「不快」と判断した「知識」も、「今ここ」の時空での心が快の方向性にあれば、行動に結びつき、その時の原始感覚で「快」と判断し感覚すれば、以前は「不快」としてインプットしていた「知識」も「快」として更新されているはずだ。心の持ち方は本当に重要だと思う。「この現象の世界は、心のもち方一つで万象が発展変化する世界である」とは、決して誇張した言い方ではないと感じる。
人間にとって、心の持ち方は重要だが、他の動物はどうなのだろうか。動物にも心はあると思うが「動物は学問しない」。学問による「知識」の詰め込み教育もない。だから理屈をこねる土台もない。野生動物は自然の流動性に合わせ、その都度その都度、原始感覚の快、不快の感覚情報に従っていると思われる。また、そうでなければ他の動物に食べられてしまう。理屈をこねている暇などない。無意識的にもそのようにしており、それが動物的「勘」となっているのではないだろうか。動物に比べて人間は甘えているのかもしれない。しかし、今さら野生動物と同じようにしろと言われたって出来るわけがない。他の動物にはない長所を伸ばして心の統制をはかっていくしかない。
人間が他の動物とは違う最大の特徴は言葉であると思う。言葉というのも情報と同じ様に脳で止まる。そして心にも刻まれる。だから今こうして、19年も前にお亡くなりになった橋本先生の言葉から、ケイゾー・コードとして、その真意と成さんとしてきた事を、探求しながら学ぶことも出来る。そして、その言葉によって励まされたり、生きる勇気をいただいたりしている。この夏の暑さは何か考察する場面に於いては過酷であり、不快でもあるが、私の心は快の方向性を持てており、愉楽しんで取り組めている。原始感覚も暑さに負けて寝転んでいるよりも、取り組むことを快と選択してくれている。勿論、この暑さの中、根を詰めていけば「そろそろ休憩して水分補給してくれ」とか「涼しい処でからだを動かして、呼吸の流れも良くしてくれ・・勿論、般若身経でね」とか、からだはサインを送ってくると思うので、それには従うつもりだ。急がず、からだの要求に耳を傾けながら、取り組むのも心の平穏(快の方向性)につうじ、新たな気づきも得やすいと感じる。心の営み(想)は「環境」と「息」「食」「動」との調和のうえに成り立っている訳なのだから。
心の平穏は、「理屈をこねる」という精神状態では得られないと思う。何故なら不安感や不公平感があるから理屈をこねるのだ。理屈をこねる精神状態を打破するのは、心を快の方向性へ導く「言葉」だと思う。そして、そういう言葉を沢山持てれば幸せだと思う。自然の流動性の中で生かされて生きている訳だから、その場面、場面にあった快の方向性に導く言葉を持っていれば、心が消沈することもなくなってくると思う。
言葉は快、不快の波動を伴っている。言葉を聞いた時、すでに快、不快の判断を原始感覚が下しているのだ。それを感じられているか、いないかは個人差があると思うが、快の波動を伴った言葉であれば、からだ全体に響かせて増幅させ、そのからだの体感と共に「知識」として記憶にとどめておき、すぐ引きさせるようにしておいた方が良い。逆に不快に感じた言葉は大きくさせず、他の事柄とつながらないようにした方が良い。何故なら言葉を喋る時というのは、無意識から発動している為、意識せずにポロッと出てしまう時があるからだ。いくら自分の心が快の方向性を向いて、他人にも不快を与えるつもりがなくとも、何かの拍子で何かのつながりができて、ポロッと出てしまうことがあるのだ。だから、なるべく不快な言葉は小さくさせて、ネットワークしないようにしておいた方が良い。快の波動を伴う言葉が無意識に口から出、そこから快の方向性へスピンして、そのスピンが「息、食、動、想」の循環と、それにつながる「環境」の輪をどんどん快の方向へ導いていく。そんな風になればいいですよね。
自分の中にある「知識」を「理屈をこねる」為に使うのではなく、「有難いってことをわかるのに知識が必要なんだよね」の「知識」とするには、心を快の方向性へ導き、元々ある原始感覚を積極的に磨いて、ききわけられた快をスピンさせて膨らませるような、そんな珠玉の「言葉」を持つことなのではないかと思います。そうすれば、その場面、その場面の快の真っ只中で自然と「有り難う御座います」という言葉が口をついて出てくるのではないでしょうか。そして、そこからまた天に向かって快が縦にスピンしていく。



2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催