人は誰しも「自分とは何者であるか」という問いかけを、一回くらいはするのではないか。
その定義付けとなる「アイデンティティー」を確立しようと、色々工夫してみることだろう。
ただそれは一部であり、全てではなく全てであって、その一部でもある・・・。
ある日のレッスン。三浦寛理事長は語った。
「あのネ、別に眼でみなくてもサ、耳でみてもいいと思わないか?」
「え・・??(禅問答みたいだ)」
「講習会でネ、操体(のデモンストレーション)をベッドのそばでみてなヨっていったら」
「その中に『私は目が見えないので見ていられません』って方が居たんだけどネ」
「『それはみてなくてもいいから、感じてなさいってことですヨ』って伝えたんだヨ」
「(納得!)そうですね・・・なるほど、感じている間(マ)ってのは、深いですねェ」
橋本敬三師の「間にあっていればいいんだ」と言う言葉は有名だが、捉え方はそれぞれ異なっている。
こんなモンで良いじゃない・・・もう十分でしょ・・・。それではあまりに不自然な解釈ではないか?
因果応報の世界に組み込まれてしまうような「間に合っていればいい」ではもったいない解釈ではないか。
ただし、本人の自由でもある、常に感じないでいることも出来るのだ。本人の言葉によって制御されているのだから。
自然の一部である私もあなたも、繰り返し同じサイクルはない。
ゆえに、食べて、出して、寝るだけを繰り返すような存在ではない。
「面倒くさいという言葉は、できるだけ使わないようにしなさい」とは、三浦理事長の言葉である
口癖のようにしていると、何でも面倒になり仕舞いに生きていることさえ面倒くさいと思ってくる。
学ぶことも同じである。簡単に済めば得をする、”楽”をして学ぶことではないだろう。
時間をかけずにマスターできるような学びとは、それだけの深みない学びでもある。
「名月や クルミのなかに 殻ともに」
〜敬郁、詠む〜
クルミも丸ごと味わっていられる感性あればこそ、見上げる今宵の月こそ名月になりうるのだろう。
硬い殻があって面倒、手間がかかる時間を割く、簡単に食べにくい、噛み応えもある。
手間をかける価値がある。美味しく頂くからには、簡単じゃないから有り難いのだ。
道はある。磨き上げていれば観得てくる。
成すべき事を積み重ねによって意識できるなら、何かに成ることを優先するのではなく、
何かを為す存在であろうと意識できるはずだ。
ゆえに、”手段”と”目的”を取り違えては困ることになる。
自分自身が為すことは、自分の中にしかない。だから感覚はききわけているのである。
それは、目に見ようとしている限り、観得ないものなのだ。
(焦らなくてものんびり掴んでいこう!)
2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催