私は1200年前の道元の教えに強烈に引き込まれている。
十数年前に手にした中野孝次箸、「道元断章」である。
- 作者: 中野孝次
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2000/06/15
- メディア: 単行本
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時間があれば、この断章の時環(じかん)に親しんでいる。
なぜひかれるのか。
橋本先生がとらえるところの、本質、いのちといのちの生命観と、よく重なっているからだ。
道元を読むと、橋本哲学の全体の一端がうかびあがってくるので、何度でも目を通す。
入ってくる同じ言葉が、その都度変化し、私にききわけさせてくれるのだ。
そうした学びが愉しくて仕方ない。
1200年前の禅師が、今は亡き橋本先生が、語りかけて下さるようで、ありがたいのだ。
これはまさに「守破離」の離ではなく理(り)そのものの姿ではないかと思う。
私は禅僧の世界にいる者ではない。しかし橋本先生のご縁の中で、その教えをはぐくんできた故に、
少しづつ、道元の教えも響くようになって来た。
人生は苦労して苦労して、苦しみつづけてつかむものではないようだ。
それを愉しみに、歓びにかえていくか、どうかである。
人はその中で、一輪の花を目に留め、見上げる。雲を、星を見て、ホッと癒される。
癒されるから報われる。
報われていると感じれば、一輪の花に生かされていると気づくであろう。
おまえが見なくても、そう思わなくても、自分をみている、その者が、
そう感じていることだろう。そうか、そうだったのか。
自分は自分であるのだが、そこに自分という色をつけてみる必要はない。
存在している、でいいのではないか。
自分の背後には、自分を超えた命を感ずれば、今までの自分という輪郭が消えていく。
それは、今まで引きずってきたものがなくなっていく。しばりや執着や我欲が去って行く。
自分とのへだたりがなく、一斉のものが自分であり、自分が一斉のものと溶けあって調和していることを知る。
ありに在るのなかに自分自身がいる。
分離のない自分を知ることができる。
橋本敬三先生の墓前にて