長年、橋本先生の元で学ばせて頂いていると、さまざまな人の出入りと、ご縁があるものだなと思う。
一人独りが、それぞれに違ったつかみ方、つまみ方をしていくものだとつくづく思うのである。
道元が絶妙に言い当てている。
同じ師につき、同じ事を同じだけ学んでも、なほ、同じ道を行く事はない。
道を共にしたとて同じ場所に立つ事はない。
たとえ同じ場所に立ったとしても、得るものが同じだということはない・・・と。
橋本先生が二十九年前に、我々に、操体法の学びについて、重要なメッセージを伝えている。
「動きよりも感覚を重視しなさい」
「操法の選択において、楽に問いかけるのではなく、快をききわけよ」と・・・・。
しかし馬の耳に念仏である。多くの者は自分の嗜好で選択しつづけている。
今さら面倒臭いから、私は今まで通りやるワ、なにか、今さら難しそうだから。
今のままでいいとか・・・。
好き嫌いとか今更面倒臭いとか、何か難しそうだから、と匙を投げる。
学びを得るとはそんなレベルの問題じゃないんだ。
先生自ら楽から快にチェンジしなさいと発言しているのだから、そこには何かがあるのだ。
楽では見えてこない本質をつかんでいらっしゃったから、メッセージに残していって下さったのだ。
やりもしないで判断するのは良くない。
一人独りちがうからと、やりもしないで放り投げてしまう、一人独り自由だと言う。
その本人の自由意志のなかに、歪んだ悪が生まれる。
どう食べようが私の勝手、自由を持ちだしてくる。
操体は皆んなのものでしょう、どう私が利用しようと、私の勝手でしょうと、平気で公言する輩もいる。
常識、道理が全く通じあわない。お借りしているのだという意識がまるでない。
習ふに至らぬ者が、大手を振って人間の顔をして、まかり通るのだから、始末が悪い。
悪すぎる。お借りしているなら、ちゃんと全食しなさいよ。
おいしいところだけをつまんで食べても、全体のおいしさはわからない。
利用してもつまみ切れるものじゃないってことが判断できない。
じっくり味わってみれば、そのもののよさなんて自前の損得の域を越えるものではない。
そうした中で、そうした輩(やから)が、自前の創作操体をメニューに、自分を売り出す。
まるでどうだと言わんばかりである。
色をつけてしまった、ということは、全てに条件つきである。
それ以上の報い、実入り、収穫は入ってこないことがわかっていないようである。
ただ好き勝手に自由にやってもいいが、後始末はちゃんとしなさい。
自分のお尻は自分で拭くこと。
自分が臭い思いをし、人にもその悪臭をばらまく、そんなことにトンと気づかない。