東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

六日目

長年、橋本先生の元で学ばせて頂いていると、さまざまな人の出入りと、ご縁があるものだなと思う。
一人独りが、それぞれに違ったつかみ方、つまみ方をしていくものだとつくづく思うのである。

道元が絶妙に言い当てている。
同じ師につき、同じ事を同じだけ学んでも、なほ、同じ道を行く事はない。
道を共にしたとて同じ場所に立つ事はない。
たとえ同じ場所に立ったとしても、得るものが同じだということはない・・・と。

橋本先生が二十九年前に、我々に、操体法の学びについて、重要なメッセージを伝えている。

「動きよりも感覚を重視しなさい」

操法の選択において、楽に問いかけるのではなく、快をききわけよ」と・・・・。
しかし馬の耳に念仏である。多くの者は自分の嗜好で選択しつづけている。

今さら面倒臭いから、私は今まで通りやるワ、なにか、今さら難しそうだから。
今のままでいいとか・・・。
好き嫌いとか今更面倒臭いとか、何か難しそうだから、と匙を投げる。
学びを得るとはそんなレベルの問題じゃないんだ。
先生自ら楽から快にチェンジしなさいと発言しているのだから、そこには何かがあるのだ。
楽では見えてこない本質をつかんでいらっしゃったから、メッセージに残していって下さったのだ。
やりもしないで判断するのは良くない。
一人独りちがうからと、やりもしないで放り投げてしまう、一人独り自由だと言う。
その本人の自由意志のなかに、歪んだ悪が生まれる。

どう食べようが私の勝手、自由を持ちだしてくる。
操体は皆んなのものでしょう、どう私が利用しようと、私の勝手でしょうと、平気で公言する輩もいる。
常識、道理が全く通じあわない。お借りしているのだという意識がまるでない。
習ふに至らぬ者が、大手を振って人間の顔をして、まかり通るのだから、始末が悪い。
悪すぎる。お借りしているなら、ちゃんと全食しなさいよ。
おいしいところだけをつまんで食べても、全体のおいしさはわからない。
利用してもつまみ切れるものじゃないってことが判断できない。
じっくり味わってみれば、そのもののよさなんて自前の損得の域を越えるものではない。

そうした中で、そうした輩(やから)が、自前の創作操体をメニューに、自分を売り出す。
まるでどうだと言わんばかりである。
色をつけてしまった、ということは、全てに条件つきである。
それ以上の報い、実入り、収穫は入ってこないことがわかっていないようである。
ただ好き勝手に自由にやってもいいが、後始末はちゃんとしなさい。
自分のお尻は自分で拭くこと。
自分が臭い思いをし、人にもその悪臭をばらまく、そんなことにトンと気づかない。