東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

般若身経から始まる・・・1

おはようございます。

早いもので春季操体フォーラムから半月以上が経ちました。
今回も東京近郊だけでなく、遠方からいらして下さった方も
多数おり、盛況のうちに終了することが出来ました。
どうも有難う御座いました。

今年の春季フォーラムも実技中心に行なわた。
実技といっても操体法には、○○病、○○疾患に対する治療法、
テクニックというものはない。

なぜなら、治すのは自分自身のからだであり、治療者ではないからだ。
それを治療者が外から何とかしようとするから、より複雑になってしまう。
そして効果が出ない分だけテクニックの種類も、どんどん増えていくことに
なる。見方を変えれば、症状疾患に対するテクニック(外からの問いかけ)
には、絶対的なものはないということが言えると思う。

しかし、からだの内なる要求に応えるという意識を持てば、よりシンプルに
なってくる。どうシンプルになるのかというと、動かしてみて気持ちが良い
のか、悪いのかを、からだにききわければ良いということになってくる。
なぜなら、気持ち良さこそが、生体のバランス制御に働きかけるものであり、
それを味わうことでバランス制御が可能となり、結果的に病気と呼ばれる
ものが治るからだ。こちらは「すべての生命は快に従う」という絶対的な理
に基づくものだ。

動かして診るということは、形態を有しイノチを宿して動く生命体にとって、
理に適うことなのだが、闇雲に動かしても診断にはならないし、操法(治療)
にも入っていけない。からだの歪みの病態変化をどう捉え、からだの内なる
要求がどうなのかを感じ取ることが大切となる。

元々のからだは良いのだ。しかし、からだが不快というサインを出し、病態
変化に至っているということは、それだけ自然の法則に反したことを行なっ
ているということだ。自己最小限必要生活必須条件として「息」「食」
「動」「想」とあるが、これらには、それぞれ自然法則があり、それに反し
た行いをしていれば、生命のバランスは崩れてくる。そのバランスの崩れを
補う為に、からだは歪んで対応せざるを得なくなる。
それでも間に合っているうちは良い。しかし間に合わないから、不快という
サインを出し、本人に気づいてもらおうとする。それでも気づけず、からだの
要求が満たされなければ、からだの歪みは病態変化へと進んでしまう事と
なる。健康傾斜の歪体化ということだ。

 有り難いことに、健康傾斜の歪体化という現象は、可逆性となっている。
そして「息」「食」「動」「想」は同時相関相補連動性であり、あるものが
悪くなれば他のものも悪くなる性質と、あるものが良くなれば他のものも
良くなる性質がある。動診では「息」「食」「動」「想」の「動」に注目し、
そこから生体の歪みを正し、健康傾斜の歪体化を逆転させ、バランスの
回復に導くこととなる。

 生体の歪みを正し、バランスを回復させるには、「動」の自然法則を知ら
ねばならない。そして、どのように歪んでいて、それに対してからだは、
どのようにしてほしいのかいう、からだの内なる要求を感じ取れなければ
ならない。それには、自然法則に則した自然体としてのあるべき姿を、
理解する為の取り組みが必要となる。
 形態を有し、イノチを宿して動く人体の、自然体としてのあるべき姿。
これは頭で理解するものではない。体感をとおして理解していくものだ。
その為の道しるべが、般若身経であり、身体運動の法則ということだ。
身体運動の法則には、健康の基を正し、自然体としてのあるべき姿を問い
かけ、それが成り立つ理と約束事が示されている。

 東京操体フォーラムでは、毎回必ず般若身経を行い、より良く理解して
いく為の提案がされている。それは、身体運動の法則と向き合い、体感を
とおして、自然体としてのあるべき姿を問いかけ、それを続けていく中で、
自らの健康の基が正され、自然体としてのあるべき姿が実感を伴い、イメ
ージできてくるからなのだ。

 自らのからだで、身をもって体感する身悟りが大切。これがなければ、
相手のからだがどうしてほしいのかという、からだの内なる要求を感じ
取ることは難しいと思う。

 操体法の創始者、橋本敬三先生は「からだの動きが8つきりしかない
ことがわかったのも、老いぼれてからなんだ」と語っていたと聞くが、
身体運動の法則を体系付けるというのは、それほどまでに大変な事なの
だと思う。今、学んでいる私達は恵まれている。私心を捨て、遺して
下さったものと素直に向きあう事が大切と思います。

 明日へつづく。