おはようございます。
昨日、自力自療ということを書いていて、人生は他力なのではないだろうか、という事が、ふと思い浮かびました。これは、他力本願とか、行き当たりばったりとか、そういうことではない。
生かされて生きている。自分を包み込み、背中を後押ししてくれているものが常に在る。そういうものに支えられて生きている。その事を基にして、その場その時に、自分に向けられた事象に対して、何かしらの意義を感じ、はじめから否定しないという事。
自分中心で物事を捉えようとすると、どうしても一時の楽や損得につながりやすい。脳には、一時的満足感を得ようとする特性があると主張する人がいるが、その為だろうか。
しかし、自分を生かしてくれているからだや、からだと共にあるイノチ、それを取り巻く環境には、長期的ビジョンが組み込まれていると思う。だから、自分に向けられた事象は、生かしてくれているものが、ある程度選別して噛み砕き、自分が受容できるように働きかけてくれているという捉え方も、出来るのではないだろうか。
それを目に見える形で証明しろと言われても証明は出来ないが、何か最近そのようなものを感じる。人と人との御縁なども、そうなのではないだろうか。
だから、生かしてくれているものの後押しを感じられるならば、一度や二度上手くいかなかったり、失敗と思えることがあったとしても、それは快への示方性でもあり、成長の予感でもあり、続けるべきだと思う。人生はトーナメントではないのだから。山あり谷あり。いつか、生かしてくれているもの達、生かしてくれる人達と歓喜に沸き、しみじみと悦びを分かち合える日が来ると思う。
人間は、母親の体内にいる10ヶ月と生まれてすぐの数ヶ月で、37億年前に誕生した生物の進化をたどるような、個体発生と系統発生を繰り返すといわれる。
そして、ハイハイが出来るようになってくると、動きまわりながら何でも口に入れるようになる。生まれたばかりの赤ん坊というのは、原始的な動物と同じような状態なのだという。そして原始的な動物というのは大地で泥まみれの生活をして、泥を舐めている。赤ん坊も同じような行動をとる。そうすることによって、赤ん坊の腸は一時的に大腸菌だらけになるという。しかし、これは赤ん坊の腸の正常な発育や、腸内細菌を増やすには欠かせないものであり、動物は皆やっていることなのだという。
こういう行為は、赤ん坊が好奇心旺盛だから行っていると考えてしまいがちだが、それだけではないような気がする。赤ん坊を生かしてくれているもの達が、そういう行為をさせているのではないだろうか。それも長期的ビジョンでもって、成長した時、ちょっとやそっとじゃ感染症にかからないようにするとか、アレルギーの予防とか、いつまでも共存共栄が出来るように働きかけているのではないだろうか。
自分に向けられた事象には、何がしかの意味や意義があると思う。否定的に捉えない事。自分に向けられた事象を受け入れていくなかで、新たな可能性は拓かれていくのだと思う。