東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

荒神谷(こうじんだに)

その場所は私の実家から車で僅か10分ほどの所でした。実家のあ
斐川町という所は面白い町で、『神』と名の付く地名がポツ
ポツ存在する場所なのです。
『神守(かんもり)』『神氷(かんぴ)』『神奈火山(かんなびやま)』
そして、今回のタイトルになっている日本の古代史を大きく
揺るがした大発見があった『神庭(かんば)』もその一つでした。

私が高校三年生位の時だったと思いますが、ひっそりと忘れ去られ
たような『神庭』の里が連日、テレビや新聞等で報道され、号外が
出るほどの大騒ぎになったのです。その世紀の大発見古代史ロマン
てんこ盛りの『神庭荒神谷遺跡(かんばこうじんだにいせき)』です。

その神の庭から出土されたのが、2年に及ぶ発掘調査で、銅剣358本
銅鐸6個、銅矛16本が発見されました。
何が凄いって、その当時、日本全国で発掘された銅剣の総数が300本
程度で、一カ所からの発掘で総数を超えてしまったのです。

この大発見があるまで、出雲に古代国家が存在したという意見には
否定的な意見が多数ありました。梅原猛氏も荒神谷の発見があるまでは、
同様でした。

そもそも出雲って畑や田んぼから色々なものが出土しますので、多分に
未だ眠っているお宝が沢山あると思います。
ウチの柿畑も大変でした(笑)

この荒神谷遺跡も1983年あたりに広域農道(愛称・出雲ロマン街道)の
建設に伴い周辺の遺跡調査が行われました。この際に調査員がたまたま、
古墳時代の須恵器の破片を発見したことから発掘が開始されました。

丘陵の斜面に作られた上下二段の加工段のうち下段に、刃を起こした
状態で四列に並べられて埋められていました。
358本の銅剣は全て中細形C類と呼ばれるもので、長さ50Cm前後、重さ500g
余りと大きさもほぼ同じでした。弥生時代の中期後半に作られたようです。
又、このうち344本の茎には鋳造後にタガネ状の工具で×印を刻まれていました。

神話は神話などと、実在すら疑念を持たれていたイズモが、荒神谷の
発見により証明され、更にそれから13年後の平成8年には荒神谷から
直線距離にして3.3Kmしか離れていない雲南市加茂町岩倉において
『加茂岩倉遺跡』が発見されたのです。こちらも荒神谷同様に、農道の
工事中に大量の銅鐸が出土したことにより発見されました。
発掘調査によって、銅鐸の総数は39個となり、1ヵ所からの出土として
はこれ又、全国最多となりました。

古代史においてやはり、出雲が重要な場所であったということが、
これによって確信に変わった瞬間でした。

ま、それから30年経った今では、マニアしか訪れる人が居ない元
の寂しげな場所に戻っています。。
因みにフォーラム某相談役が来島されたときに行きたい!と言われて
いたのはやはり、マニアだからですね・・・

ところで、この荒神谷って名称ですが、荒神って呼ぶ位ですから、
元々、荒神さんが祀ってあったのです。遺跡の南側に三宝荒神
があったので、この名称が付きました。

はい、この荒神さん、またしても素戔嗚尊絡みだったのです。。
遺跡を丁度真下に見下ろすように素戔嗚尊荒神があるなんて、
何だか色々と妄想が沸きませんか?

実際にこの荒神さんに足を運んでみると、その場所だけ空気が
変わるのが分かります。何とも言えない重苦しさと言いますか、
張り詰めた空気と言いますか、ただならぬものをシッカリと
感じることが出来ます。。

中世の戦国期の混乱時にはかなり廃れていたそうですが、
天保四年から続いた大飢饉の時に神庭西谷地区の村人たちが
荒神さんを再度お祀りしたところ、神慮を得て、幸せに暮ら
せるようになったとの言い伝えがあります。

神庭地域の古老に伺うと、昔から遺跡が出たあたりは、神様の
バチが当たるから入っちゃいけないとか、祟られるから駄目だって
言われていたとのこと。

本当は発見してはいけないものだったのか?などと古代史は妄想三昧ですな。。