今回のリレーブログ、テーマは 『おさめ』 。
操体の「おさめ」に関する私的な定義としては、「快適感覚を収めて、疾患を治める」ことにある。 具体的に言うと、操体操法による快適感覚によって拡がっていた意識を自分のからだに戻す。 そして、その快適意識を下腹部丹田に収めることで、からだを自然身に戻し、疾患を治めることである。
まず、「疾患を治める」ということにスポットをあててみたい。 疾患を治めるとは、病気を治すことなのではあるが、それを治すには、病気そのものを治そうとしてはいけない。 病気というものは苦痛であり、不快であるものだ。 ならば、そこに逆の「快」を作ってやればよいのである。 快適感覚ができれば、もはや病気は消えてしまったも同然である。
病気は、本来的に言って、無いものである。 それはただ、快適感覚が足りていないということだ。 このことは、操体の臨床において、「快」を増すことができたなら、早々と疾患が消えていくのを目にすることができる。
快適感覚ができれば必ず不快は消えることになる。 しかし、不快が訪れて快が消えるということはないのである。 「快」と「不快」とは、一見、相対峙した二者のように見えるかも知れないが、本当のことを言うとそこには「快」しかないのである。 苦痛が感じられる所は、不快があるのではなくて、快が薄いというだけのことである。 それが証拠に快を強くすれば、不快は必ず消えるしかないからだ。
しかし、消え去ったからといって、不快がどこかへ移動したのではない。 本来は無いものであるから、見えなくなっただけのことである。 だから不快を強くして快を消し去ろうとしても、できるものではない。
健康と病気というのも、相対峙した二者ではない。 健康は実在するが、病気は実在しないものである。 病気とはただ健康が薄いということであり、だから健康を増すことで、病気は必ず消え去るしか無いのである。 未だかって、健康なカラダに、病気があった例はない。 だから、健康にならないものは、病気を治そうと思ってはならない。 ただ、健康を増すことだけを考えればいいのだ。 そのように病気を治めればいいのである。
ここまで理解が深まれば、病名の詮索など、まったく無用なことになってくる。 健診センターなどへ出向き、精密検査などといって、すべての検査をしつくしたところで、それで病気が治ったためしはない。 また、いくら早期発見されたところで、それで快癒したことにはならない。 国立癌研究所の所長殿が代々癌で死んでいっているのを見れば、それが何よりの証拠だ。
すなわち、病気を治めることは、病気を深刻に見つめる仕草ではなく、健康を作り出すことに真剣に向き合うことである。