おもしろいことに、どんなに五体満足で健康な人でも人体のどこかしらに「痛い」ところがある。
臨床を通していても、なぜ、こんなに健康な人にこれほどの痛みが通るのか不思議で仕方ない時がある。また症状・疾患を抱えている人ほど痛みが鈍感になっていることが多い。それはからだが無意識に痛みを隠そうとするからなのだと思う。
なぜ、からだは痛みを隠そうとするのか?
そういえば、私が2年間、飼っているハムスターも人間と同じように病気や怪我を隠す習慣があると聞いた。それは外敵に対し、自分を強くみせるために本能でそうしているらしい。
きっと人間にもそういった自然の本能が備わっているのだと思う。それは自分の意識レベルでは感じ取れないものであり、無意識にからだが行っている行為なのである。
そのように痛みを捉えると、人間の意識レベルで感じる痛みはからだからのメッセージであり、本来からだが治さなければならない箇所ではない可能性が高い。例えば、肩が痛い、腰が痛いという症状があったりしても、からだが「痛い!治してくれ!」と訴えているのは肩や腰ではなく、無意識にからだが痛みを隠している箇所なのだと思う。
操体の臨床では患者の訴える症状・疾感を鵜呑みにはせず、からだ全体を丸ごと一つとして診て治療をする。からだがどこを診てほしいのかを診断し、快適感覚を通してからだが治す手助けをしているのが操体の臨床なのだが、気持ちのよさを味わっていくと患者が訴える痛みは変化し、時間の経過と共に快に変わり、からだが喜んでくれているように感じるのである。
「痛み」に対し、こういった捉え方をしていくと決して悪いものではないことがわかる。
それはからだからのシグナルであり、「痛み」という不快があるからこそ、気持ちのよいという快適感覚が聞き分けられるのである。
人間が生命活動を行っている以上は、からだには少なからず歪みが生じる。それは歪みという形でバランスを保っているのであって決して悪いものではない。そして歪みから生じる痛みも常に変化する感覚であり、気持ちのよさと表裏一体で感覚とからだのバランスを保っている。
もしかすると「痛み」というのは人間がからだを使わせて頂くうえで、なくてはならないものなのではないだろうか?
誰でも「痛い」のは嫌なものだと思うが、この痛みこそが、からだの治癒力を引き出す「快」の起源になるものだと私は思っている。