昨日書いたことは臨床でも同じことが言える。
視診・触診・動診、それぞれ一つ一つをおさめていかなければならない。
治しぱなしの臨床では治るものも治らないし、施術する側も後味が悪い。
やはり臨床もお互いが「ありがとうございます」と素直に頭を下げられるような臨床を行っていかなければならないと思う。それには臨床の中でお互いの信頼関係を構築していくことがとても大切になってくる。
そういったことを考えていく中で、私自身が操体の臨床家として、最近大切にしているのが「痛み」との向き合い方である。
どの臨床でも施術者と患者は共通して「痛み」と向き合わなければならないのだが、どの手技を見ていても「痛み」とは自らの生き方、行いに対しての「報いの痛み」のように見える。つまりカラダを壊した代償を痛みとして払わせているのである。
施術する側の観点からすれば、患者に「痛み」と向き合わせることでカラダの構造を正し、「もうこんな痛い思いはしたくない」と思わせることで患者自身の生き方を正していくことも一つの臨床であるのかもしれない。
しかし私達操体の臨床家は「きもちのよさで体は治る」という創始者のコトバがある以上は患者にそういった代償を払わせるような「報いの痛み」と向き合わせるべきではないと思う。
ではどうしていくべきか。それは「痛みも体にとっては必要なもの、またはカラダが治す過程で必要なもの」という「救いの痛み」として捉えるべきである。
こういった捉え方をすれば、「痛み」もただ痛いだけで留まらず、快へと変化し、やがてカラダが悦ぶ治癒力へと変化する。
そういった捉え方で痛みと向き合っていくと臨床も治しぱなしということにはならず、おさまるところにおさまる。臨床が互いにおさまれば施術者と患者自身もきもちがよいし、良い信頼関係が築けるように思う。