静かな森のなかにある大きな木の下に座って、過去を飛ばし、未来も未だなく、何も考えることなくただそこにいるとき、一体、どこに自分の存在があるのだろう? 一体どこに 「私」 というものを見つけ出せるのか? いや、それを感じることはできない。
たった今この瞬間という現在において、私という自我は、未だかってあったためしがない。 それは、過去はもはやなく、未来も未だここにない。 過去は吹っ飛んで消え失せ、未来は未だ現れていない、ただ現在だけがある。 そして現在には、決して自我のようなものを見出すことはできない。 そうしていると、世界の見え方が少し変わってくる。
ほんの一瞬、1秒の間、いや0.5秒でいい、自分の内側にまるで自分がいないかのように感じて見る。 これは実に素晴らしい瞑想法になる。 たった0.5秒の間、まったくの停止! 自分はいない! 自分がいなくても世界は完璧に申し分なく続いているというこの事実に、ますます目覚めるようになる。
するとどうだろう、長い間、無視されてきた自分の存在のもう一つの部分を学ぶことができるようになってくる。 物事は、自分なしに上手く起こり続けてゆくということ、これは稀にみる受容的な生き方のひとつである。 そしてこの受容性は自分の存在のもう一つの部分である爽快感からやってくる。