ゆっくり味わうこと、それはトイレの「間」。
なのでトイレ話を続けてしまうけれど、食事中ならば申し訳ない。
以前、三浦理事長からトイレ掃除について、含蓄ある実践語りを聞いた。
自分の使っている便器。
便器は汚いモノだろうか、と。
そりゃそうだろう、と考えた後『なぜ汚いって考えるのか』を考察した。
三浦理事長は、自分の中に入っている間は『汚い』なんて思わないのに、
なんで自分の中から出た瞬間から、汚いって思うんだろうな、と。
たぶん、ほとんどの人達は自分を「おもて」だと考えているんだろう。
そして「うら」、「からだ」の内臓を全く気にしていないからなのか。
それでも、内臓から外の空間に出た瞬間から『汚い』と考えるのを、
全く考えずに自分の愛おしい一部である、とするのは若干厳しい。
どうしたらいいのだろうか。
その答え(に近い)実践を、三浦理事長は教えてくれたのである。
ワタシ自身、ウソかホントか、それを愚直にやってみた。
そうしたら、自分が考えた世界観は「ガラッ」と音を立て崩れた。
やはり「うら」も「おもて」も、やってみないとわからないのだ。
聞いただけ、知ってるだけ、情報を撫でただけでは、わからない。
皆様も考えてもわからなかったら「からだ」に問い掛けてみては?