操体を学び始めてから15年近くの歳月が経ちましたが、年々自身の学びの姿が自由うになってきているように感じます。
動き、呼吸、動診における介助・補助。
その問いかけが自由になってきているのも、からだが要求していることが瞬時に感覚的に理解出来るようになってきたからなのだと思います。
これもじぶんの操体、またはからだの理解度が深まってきたというよりも、自身のからだが教えてくれているように感じます。
学び始めた当時は教わったことを何度も繰り返し、自分の思い描くイメージをからだで再現していくことをゴールにしていました。
それはからだの学習よりも脳の学習が先立って、どこか不自由さを感じていたのを覚えています。
しかし、ある時からそういった不自由さが消え、からだと向き合う中で自由な発想が生れるようになってきました。
教わったことをそのままやるのではなく、からだを通じて、感覚を通じて生れてきた発想を形にしていくような感じです。
そういうじぶんに変化してこれたのも、正当なからだの使い方をしていく中でからだとの信頼関係が築けたからなのだと思います。
生きることにおける主導権はからだに委ねるのは決して簡単なことではありません。
しかし重心の適性化の中で正当なからだの使い方をしていけば、からだは私達に絶対的な安心感を与えてくれる。
その安心感は「自由」を与えてくれるように思います。