昔からずっと思っていることですが、操体、操体法の一番面白い所はからだへの問いかけ方が一人ひとり異なるということです。
診断の中で診なければいけないところはほとんど一緒であるが、それを改善していくためのアプローチの仕方は人それぞれで面白いなと感じます。
アプローチが人それぞれ異なる理由も挙げればキリがありませんが、その時、その空間のからだとからだとの相性や状態、呼吸の通り方等が挙げられます。
こういった様々な要素が全て摩擦を起こさずに「快」に繋がるように診立てを行い、結果的に「重心の適性化」に繋がっていくのが操体の臨床の姿である。
そこに行き着くには動きだけでなく、呼吸、想念、言葉、意識、様々なものが診断の要素になり、それをどういったアプローチでからだの要求に適うようにしていくかが操者の腕の見せ所になります。
そういった操体法の臨床の姿を見ていくと、とても自由な姿だと感じます。
「じぶん」と「からだ」を生かしてくれているもの全てを臨床応用し、選択出来る自由がある。
しかしその自由もからだの要求に適うというルールの中での自由になる。
つまり「勝手」は許されないということです。