東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

からだ(4日目)

昨日の続き
四番目のからだは精神体、メンタル体のことである。メンタル体では想念が入ってきて、想念が出てゆく。この現象も肉体における入息・出息と同じ種類の現象だ。心の内に想念がやってきては出てゆく。想念はそれ自体がエネルギーである。メンタル体ではエネルギーが想念の往来として顕われ、肉体では呼吸として顕われる。だからこそ呼吸に応じて想念を変えることができるのだ。
このメンタル体をうまく利用しているのが俳優だ。俳優は呼吸を使って想念を意のまま操ることができ、その場にあった役柄をうまく演じることができるのである。そこには相互の関係がある。息を吸うのを止めたら、想念がやってくるのも止む。呼吸を止めることによってメンタル体での想念も止むことになる。そして肉体が不安定になるにつれて、メンタル体も不安定になる。肉体は息を吸いたがるし、メンタル体は想念を入れたがる。空気が肉体の外側に存在するように、想念もメンタル体の外に広がってくる。
想念は入ってきて出てゆく。自分の息が、いつか他人の息となりうるように、自分の想念もまた他人の想念になりうる。毎回、息を吐いているのと同じように、自分の想念を投げ捨てている。ちょうど空気が存在するように想念もそのように存在する。空気が汚されるように、想念も汚される。空気が不純になるように、想念もまた不純になる。想念を取り入れ、想念を投げ出すエネルギー、そのエネルギーも同じプラーナ、生命エネルギーである。
この「入ってくる想念」と「出てゆく想念」にも相似・対応するものがある。息を吸っている間に想念が浮かんだら、そのときはじめて独創的な考えが生じる。息を吐くときは無力な瞬間だ。その瞬間にはどんな独創的な想念も生まれない。ある独創的な想念が生まれる瞬間には、呼吸さえ止む。独創的な想念が生じるとき、息は止まる。対応する現象はそれだけだ。想念が出てゆく際には何ものも生じない。それはただ死んでいる。だが、入ってくる想念と出てゆく想念に気づいたら、そのときには次の五番目のからだを知ることができる。四番目のメンタル体のところまでは、理解するのは困難ではない。というのも我々にはそれらを理解する拠り所となりうる何らかの体験があるはずである。

操体では「自分でなければやれぬことは、息と食と動と想の四つがあり、他人に代わってもらえない」という教訓がある。この内、「想」はメンタル体の「想念」のことを言っている。病にかかった想念はすべて少なからず、神経症を伴っており、この神経症をいかに溶解するかということである。操体の動診という技法は、肉体から出発するのであるが、その神経症は肉体組織にまで及んでいて、抑圧をつづけている。この「想念」の抑圧を解放するのに動きから導かれる「表現」がとても効果的だ。動診での「表現」における意識からメンタル体の「想念」に気づかされるのである。メンタルチックに言えば、「動診」というより、むしろ「表現診」といったほうがふさわしい。
明日につづく



日下和夫


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