東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

からだ(5日目)

昨日の続き
五番目のからだ、スピリチュアル体は霊体とも云うが、ちょうど低次元のからだの住む大気圏が想念や息や磁力や愛憎であったりしたと同じように、スピリチュアル体の住む大気圏は「生命」である。スピリチュアル体にとっては、生命、それ自体が大気圏だ。だから入ってくるときが生の瞬間、出てゆくときが死の瞬間になる。スピリチュアル体にまでくると、生命が自分のなかにあるものではないということに気づく。からだの中に入ってきて、そしてからだから外へ出てゆく。生命それ自体はからだの中にはない。それはちょうど息のように単に中に入ってきては外に出てゆくものだ。だからこそ、このスピリチュアル体のゆえに「息」と「プラーナ」が同義語になったのである。
スピリチュアル体ではプラーナという言葉は重要になる。それは中に入ってくる生命と外へ出てゆく生命のことであり、死の恐怖が絶えず我々につきまとっているのはそのためだ。我々は、いつも死がすぐそばにいて、角で待ち受けているということに気づいている。それはいつもそこにいて待っている。死がいつも我々を待ち受けているというこの感覚、不安、死、暗黒のこの感覚はスピリチュアル体にかかわっている。それは非常に暗い感覚、非常に茫然としている。というのも、我々はその感覚に完全に無自覚であるからだ。スピリチュアル体に達して、そのからだを自覚する。と、我々は生と死は両方ともスピリチュアル体にとって、入っては出てゆく息にすぎないということを知るようになる。それに気づくとき、我々は死ぬことはできないということも知る。死は先天的な現象でなく、生もまたそうである。
ジグムント・フロイトはどこかで、それをどのようにかはわからないが、垣間見たにちがいない。フロイトはヨーガの達人ではなかった。もし、彼がヨーガの達人だったとしたら、それを理解するところまでいっただろう。フロイトはそれを「死の意志」と呼んだ。そして誰もが生に憧れ、ときには死に憧れる、と言っていた。人間には相反する二つの意志がある、生への意志と死への意志だ。それは西洋人の心にとってはまったく馬鹿げたことだった。この矛盾する二つの意志がどうやって、ひとりの人間の中に共存できるだろう? が、フロイトはこう言う。「自殺があるのだから、死への意志もあるに違いない」
人間以外のどんな動物も自殺することができない。動物はスピリチュアル体を自覚することができないばかりか、生きていることも自覚できないし、知りえないから、自殺することは不可能なのである。自殺するには必要な条件がある、生きているということの自覚が必要になる。だが、動物たちは生を自覚していない。もうひとつ必要なことがある、自殺するには、死に対して無自覚でもなければならない。動物たちは生を自覚していないがゆえに自殺できない。が、我々人間は、生は自覚していても死を自覚していないがゆえに自殺が可能なのである。もし、人間が死に対して自覚するようになったら、自殺などできるものではない。
死は五番目のからだの相、スピリチュアル体のものである。それは特定のエネルギーの流出と流入だ。世の中には、ときに自殺を考えたことのない人間はただのひとりもいない。なぜなら、死は生のもう一つの側面だからだ。この側面が自殺か殺人か、いずれかにつながりうる。そのいずれかになりうるのである。
もし、生にとり憑かれたら、もし、生を完全に否定したいほど生に執着したら、我々は他人を殺すかも知れない。他人を殺すことによって、自分の死の願望を、死への意志を満足させることになる。そういうトリックを使って死への意志を満たすのである。そして他の人が死んだからもう自分は死ぬ必要はないと考える。
ヒトラームッソリーニなど大虐殺を犯した人たちは、みなそれにもかかわらず非常に死を恐れていた。彼らはいつも死に対して非常におびえている。だから、その死を他人に投影する。他の誰かを殺せる人は、自分が死よりも力強いと感じる。自分は他人どもを殺すことができる、「手品まがいのやり方」、「魔法の公式」を使って彼はこう考える。自分は他人を殺せるから死を超えている、自分が人に対して為すことは、自分の身には為され得ないと。これは死の投影である。だがしかし、それは自分に戻ってくる。我々が多くの人を殺し、しまいには自殺するとしたら、それは我々に戻ってくる投影なのだ。ヒトラーの一生はまさにこれだった。
スピリチュアル体においては、生と死が自分にやってきたり、行ってしまったりすることに、人はそのどちらにも執着できない。もし、執着しているとしたら、我々は生と死の両極性をその全体において受け入れていないということになる。そして我々は病気になるだろう。死を生の別の面と見なして受け入れることは最も難しい。生と死を相似・同一現象、ただ同じもの、ひとつのものの二つの側面として見なすのは、最も難しいが、スピリチュアル体ではそれが両極性なのである。それがスピリチュアル体におけるプラーナ的存在なのだ。

橋本敬三師は「生かされている」という生命観について触れられているが、これはまさにスピリチュアル体のことだ。師は、「心身は、大自然が生んだ機動機関であり、生命エネルギーの入力出力を繰り返す」また「生命エネルギーの入力出力のバランスは原始感覚の安定感、満足感である」と言っておられる。これら操体哲学の中枢は生命の根幹に土台を据えているということだ。
明日につづく


日下和夫


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