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東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

第六感と不可視な感覚

岡村郁生(おかむらいくお)

(昨日のブログ続きとなるヒント)

古今東西。過去から全く変化のない状態で保存されるものなど、そうはない。
操体においても、昔は「平均集約運動」と呼ばれていた「からだのつかいかた・うごかしかたのルール」を、
現在の操体では、「般若身経」ということはご存じだろう。
そしてこの「般若身経」とは、”三法則と一相関性”から成立していることもご存じだと思う。

東京操体フォーラム三浦寛理事長は、誰よりも「般若身経」について詳しいといっても過言ではない。
なぜなら温故知新のもと、つまり基本はしっかり踏まえた上に、さらにかみ砕いて消化されているがゆえに、
現在は三法則はさらに倍以上、相関性に至っては三倍以上のわかりやすさとなって深められているのである。

「般若身経」の意味とは、日々の生き方を通じて操体を学び、臨床や自力自療の操体法を身につけ、
からだの使い方と動かしかたについて指導できる。
操体の指導者として”からだの要求”を通すならば、決して切っても切り離せない。
まさに自然法則の応用貢献の賜であり、人間からすれば救いを説いている”道”でもあるのだ。

閑話休題
マコーレ・カルキン氏主演、ブルース・ウィルス助演の映画「シックスセンス」では、
普通の人では見えない・聞こえない・触れられないような感覚を持つ少年の苦しみを、
少年自身の葛藤を昇華していく過程で、いわゆる霊的な存在と交流し、お互いの霊的成長を映し出していた。
目の視覚・耳の聴覚・鼻の嗅覚・舌の味覚・触感覚の他、五感では感じることのない世界を感じることを“第六感”という。

「楽」とはあくまで対象あっての存在であり、五感の中で完結している。
痛いことをやめて、痛みのない方向、または辛くはない方向の可動極限まで動かし、動きをたわめた後に瞬間急速脱力。
この操体法操体を「第一分析」という。これを学びはじめの頃、自分はそのような「第六感」的感覚とは一切無縁であった。
とはいっても、幽霊とかそのような抽象的な話ではないのである。
”普段は意識に上ってこない感覚”または、”日常では感覚することのない感覚”のことである。

これを、”深部感覚”とか、”内臓感覚”と置き換えてもかまわないのだが、
それも適当ではなく、明らかに自分の意識で感覚出来る次元を超えた感覚・・・というのはあるのだ。
刺激による単純な「快感」ではない。何ともいえない妙味を感じさせてくれる有り難き感覚なのである。
これを三浦寛理事長は、「快の予備感覚」と名付けている。
この「快の予備感覚」というものは、「快適感覚」を学習していく上で非常に重要な意味を持っている。
そして、その個体の意識を超えていき、その人間の”からだの無意識”を通じて「生き方の自然法則」にまで共鳴波動しているようだ。

つまり、可視ではなく不可視と交流するものに関与していることを、”感覚できる”ということである。
それは普段意識されない感覚であり、精神(コ・コロ)の味わっている感覚ともいえる。
生活に追われ感じにくくなる感覚、あまりにも便利な世の中になり、不便を感じないでいると、
有り難みを感じることさえ困難になってしまうような感覚なのではないか?

実際には、どんな人も幼子の頃は間違っていない。幼子の頃はみな持ち得ている自然な感覚でもある。
その自覚があろうとなかろうと、原始感覚とは、味わってみることで磨かれていくものであり、
「快の予備感覚」、「からだの無意識」、「接触による快」などで磨き抜かれ、
意識という精神によって洗練しうるのだろう。
ただ、注意してほしい!「楽」にはなんの反応すらしないのが”原始感覚”なのである。

この意味は臨床(臨生)において大きく差を分かち合ってしまう。
勿論、「快」を学び取れば「楽」の存在価値もよくよく理解できる。
しかし、「楽」の学び?からは「快」の学びにはなり得ないのだ。
それは、可視から不可視をみようとしているのと似ている。

要するに、「快」を通すのは、イノチの要求を満たしていることに外ならない。
例えば、操体の「渦状波(第三分析)」の臨生において、
「第一分析」の操法とはかけ離れた感覚を患者自身でききわけられることになる。
先ほど述べた感覚とは、患者自身の言葉では伝えにくい“予備感覚”をききわける経験となる。

この非日常的感覚は、患者の要求のみに頼っていては学習できない。
なぜなら、相手に委ねた思考による意識を優先しているからであり、それは本来の「からだの要求」ではない。
この際だからハッキリ言おう!
操体」を真っ正面から学び取る上で「般若身経」と「生き方の自然法則」が欠かせないように、
「楽」を通じて「操体法」を通して感じている限り、「快」を通じた「操体」臨床を通すことは出来ないのだ。
まあ、要するに”分極からは太極は生まれない”ということなのだ。

これを読んで何を言っているのかさっぱりわからない?という御仁、ご婦人のために巳年のプレゼント!
4月28日開催される『春期東京操体フォーラム』では、三浦寛理事長による操体臨床を間近に感じ取れるというもっぱらの噂だ。
あれ、あなたの手元にあるのはスマホですねェ(携帯でも手帳でも可)
それでは早速、その日は東京千駄ヶ谷九時!と予定を埋めておいたほうがいいですな・・・。
・・・・ということで、今日も有り難うございました。