東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

利己的にならない統制

まず、私自身ホントかウソか、やってみてよく理解できたことがある。
しっかりと自立した自分を持つことが出来なければ、相手に合わせるという高度なことはできない。

自分以外の人間をコントロールして、思った通りに操りたいと願う人間もいる。
そもそも、そんな自分さえコントロールできずに、相手をどうこうというのは不遜だろう。
・・・などと言う私も、操体を学び呪縛から離れることを知った一人である。

自分の要求を通したかったら、まず相手の要求を聞いてあげればいい。
相手の要求を全く受け付けないままに、自分の要求のみを通そうとしてもそれは、”無理”なのだ。
では、自分の要求を通すにはどうしたら理に適うのだろう。

”人を動かす”、”人を説得する”などの自己啓発の書で提案される例にあるのは、
その人の身に立ってみること、自分がその人の立場ならどうするか考えてみて考えること、とある。
つまり、へりくだって一歩引いたところで相手を持ち上げ、相手の自尊心をくすぐる方法なのである。

しかしこれは本当にその人の立場に立っているのだろうか?
自分の要求を通したいがゆえに、相手の立場に立っているだけに過ぎないような気もするのだ。
そのように考えてみると、どんなにへりくだっていたとしても、結局のところは利己的な行動に過ぎない。

欲求を問い満足を与える必要性は、この世にサービス業と言われる仕事で証明されている。
サービスといっても対象は何なのか、そこを意識できるかどうかであり、
自分たちの利益を求めるがゆえに、利益の追究を主と甘んじ、赦しているのはどうなんだろうか?

橋本敬三先生は、「サービスしなさいよ。サービスしなきゃバチ当たるよ」と語っている。
そのサービスとは、利他的なサービスをすすめているのであって、
利己的なサービスをすすめているのではなさそうに感じている。

門外漢ながら聖書から引用すると、
「自分を愛するように隣人を愛せ」とある。
この隣人愛の場合、他人への同情とか名声のための慈善事業ではないだろう。
あくまで「自分を愛する」という理解の深さに、その本質を学ぶガゆえに、隣人への愛は成立しうると感じるのだ。
これを臨生(臨床)に語るのであれば、「自分を愛するようにからだを愛せ」ということだろう。

根底に自分とか、相手とか、そこから始まっているようではみえてこない。
分極されたところからどんなに頑張っても、観得ることはない不可視なことはあるのだから。
そこに自然の本来の姿、サービスの真理はあるのだろう、と考えている今日この頃である。

・・・そうだ!4月28日に東京の千駄ヶ谷駅津田ホールにて開催される、
『春季東京操体フォーラム』で「操体」を学ぶ上で欠かせない「ひかがみの触診」指導ほか、
腹臥位での操法もいくつか、百戦錬磨、快刀乱麻?の実行委員指導のもと体験できるかも、というもっぱらの噂である。

いまから虎視眈々と準備しておこう!家族サービスもにいそしみつつ、カレンダーに大きな”8”のサインをつけておくのもオススメだ。
(なぜ家族サービス?8の字なのか?ソレは操体を学んでいればよ〜く理解できてくるのである)
・・・・ということで、今日もありがとうございます。